地獄で仏

「あの…すみません、日本人ですか」

「はい、そうですが…」

「ああ良かった。あの…。僕どうしていいのか、この先が恐ろしくて」

「えぇ?どうされたのですか」

「き、聞いてもらえますか」

「ええ、もちろん。何かできることがあれば…」

彼は安堵したかのようにドサッと、私のテーブルの向かいに座った。小柄でぼってりした色白。頬がほんのり紅い童顔で二十代後半か。Tシャツにジーパン姿はインド観光の日本人、典型的な服装だ。よほど思いつめていたのか、人の良さそうな小さな目を閏わせ一気に話し出した。滞在しているブッダガヤのホテルで夕食を取っていた時のことだ。

            *

ここブッダガヤは仏教の生誕地で、日本はもちろんネパールやタイ、スリランカなどの各仏教国の寺院が集結している。国によって朱色や白、サフラン色と僧衣が異なり、山深い小さな村でありながら国際色豊かなところだ。

仏教の四大聖地というところがある。ネパールのルンビニーで生まれたゴータマ・シッダルタがブッダガヤの沙羅双樹の下で開眼する。その後、ガンジス河近くのサールナートで初説法、クシナガレで永眠する。

このルンビニー、ブッダガヤ、サールナート、クシナガレは四大聖地と呼ばれ、仏教史を訪ねるインド観光の目玉のひとつになっている。

さて、この色白君もこの巡礼コースを日本の旅行社で申し込んだのだが、あいにくツアーの参加者はゼロ。インド人日本語ガイドとドライバー付きのチャーター車で四大聖地を廻ることになった。

インド渡航は初めてと聞いて、おやっ、と思った。そして旅費の高額さに、そんな!話を聞き終え時には、お気の毒に…と一緒にため息をついた。

行く先々でガイドにお金をむしり取られているのだ。たいていは食事代で、いったんガイドが立替払いし、あとで客に請求する。この場合、食事代の相場がわからないと、ガイドの言いなりに支払わされることになる。恐らく、三人分とプラスアルファを請求されているのだろう。通常、客がガイドやドライバーの分まで支払う必要はない。彼はガイドから「ソロソロ、ショクジデスネ」と言われるたびに胃が痛くなると訴えた。

その他、土産物やチップやと客からお金を引き出す手はいくらでもある。なにしろ、マン・ツー・マンでガイドの方に圧倒的有利な文化的、地理的条件の中にいるのだ。ヘタに反抗しガイドを怒らせると後が不安だ。初めてのインド旅行では病気やケガをした時に頼りになるのはガイドだけ。彼の旅程は十日間で、ここブッタガヤで六日目。すでに用意していた費用はほとんどなくなってしまったと言う。

「百ドル(約一万円)ほどでよければ、お貸しますよ。日本に戻ってから返してくれたらいいですから」

「いいえ、いいえ、そんなつもりではないのです。お金は大丈夫です。もしもの時のための用意がありますから。ただ、インドの習慣がわからなくて、本当に請求されただけの額は払わなければならないのか、どうかと思って…。実はガイトから最終日、車を降りる時には、ドライバーにチップとして三千ルピー(約七千五百円)を払うのがマナーだと言われているんです」

―――チップに三千ルピーですって!ふざけるな! 彼らの一ヶ月分の給料以上じゃないの!

「チップの必要はないですよ。たとえ、気持ちがあっても百ルピーで十分」

私は通常インドではバンジャビーというスカーフとワンピース、ズボンの三点一セットになった民族衣装を着ている。彼は私がインド人と結婚して、インドに住んでいる日本人だと思い、声をかけたと言った。

「どうされるんですか、この先」

「とにかく、このまま旅を続けます。日本語で話をしたら何だか気が楽になりました」

「そうですか、気を付けて。ホテルはガイドと別室でしょ。あんまりひどい事になりそうなら、部屋から日本の旅行会社に電話したら良いですよ」

「ありがとうございます。そうします」

            *

彼の話を聞きながら、スーリヤ・カーン(仮称)という若い日本語ガイドを思い出していた。四年前、深夜に着いたデリー国際空港からホテルへの送迎に来たガイドが彼だった。背が高くがっしりした体格で流暢な日本語を話した。翌朝は国内線でカジュラホに行く予定だったが、それが運休になり、私はデリーで二泊しなければならなくなっていた。翌日まる一日空いてしまった私に、明日は何処に行きたいですかと聞いてきた。デリーには何度も来ているし、たいして興味もないのでと断ると、それでは困る、ガイド料がもらえなくなります。せっかく他の仕事を断ったのに。家族十二人が僕と兄の稼ぎだけで食べているんです。とても貧しいんです。と、逆ギレだ。

私は日本語を話すインド人は、はなから信用していないので返事をしぶっていた。観光に興味がないのなら、今、面白い映画が上映中で僕の通訳があればヒンディー語映画も楽しいはずです。の切り札に私はつい乗ってしまった。歌って踊るインドのコメディ映画が大好きなのだ。

スーリヤは非常に手回しがよく、通常の十倍の値もする映画のチケット、高額な土産物屋、高級レストランを手配した。その全ての支払いをまず彼が立替払いをし、そのつど私に請求をした。私が言われた額を支払っていくと、彼のサイフは見事に膨らんで行き、それと反比例して私のサイフはへこんで行った。

そして、一日中、家族の誰それが病気で治療代がかかるだの、自分の夢は故郷ブッタガヤに学校を作って貧しい子供たちに教育を受けさせることで、そのためにはお金がいるだのと、捲くし立てた。こういった「私は貧しい」を誇りのように繰り返すインド人は何処にでもおり、うんざりするほど聞かされる。

インドに旅行した日本人は両極端。これくらい好き嫌いがはっきり分かれる国は他にない。といわれるが、その原因の大部分はあからさまな貧困と、このような詐欺まがいな行為によるものと私は思っている。

その日も暮れ、そろそろホテルに戻る時間。

「どこかで食事をしましょう。僕はブッダガヤから仕事がある時にだけデリーに来るので、アパートに帰っても一人ですし」

と言う。なーるほど、本日最後の荒稼ぎということか。

「う~ん、でも、私疲れたから、もうホテルに戻るわ」

「でも、どっちみち夕食は食べるのでしょ」

「そうよ、じゃあ、ホテルのレストランで食べましょうか」

「オッケー!」

彼は大喜びだ。ホテルのレストランでディナーを取り彼は勝手にビールも注文した。食事が済んだころ、「じゃ、払ってきます」とスーリヤが当然のように立ち上がった。私はボーイに向かって手を上げた。

「May I check, Please. I sign.(精算して下さい。サインします)」

と言うと、彼は露骨にいやな顔をした。

「あら、どうしたの?奢ってくれるつもりだった?」

「いや、違う」何か腹に据えかねているようすだ。

「そう。ねぇあなた、ピンハネという日本語、知ってる?」

と私はにっこりして彼に尋ねた。

           *

「Wooooo! Interesting Budda stature!(わぁ、珍しい仏像ね)」

「Yes, It may(そうでしょうね)」

九頭のコブラを敷いて仏陀が座禅を組んでいる。仏像の頭の上に伸びるコブラの九つの頭はまるで背後から襲いかかる巨大な熊の手だ。それがプールのような沐浴場の水の上に浮かんでいる。

九頭のコブラはヒンドュー教のビシュヌ神の象徴である。インドで生まれた仏教が何故、廃れたか。それは仏陀は実はビシュヌ神が姿を変えた化身の一つであると、ヒンドュー教が唱えたからである。つまり、インドの仏教徒はヒンドュー教ビシュヌ派に取り込まれてしまったというわけだ。ガイドのアムダ氏は数少ない仏教徒で、

「インドの仏教徒はもう、ブッダガヤぐらいしか居ないでしょう」

と言っていた。

彼の案内でブッダガヤの村が一望できる高台の丘に行った。見渡す限り田んぼや牧草地の緑で、のどかな日本の農村風景に似ている。

「Excouse.me. Madam(すみません、マダム)」

振り返ると、白いカッターシャツに黒いズボンをはいた身なりの整った若い男が立っていた。彼は丘の下にあるフリースクールの教師だと言った。

フリースクールというのは貧しく学校に通えない子供たちに無料で授業をする所で、ボランティアや寄付で運営されている。日本にも大阪や神戸、京都などにインドやバングラデシュ、カンボジアなどのフリースクールを支援するNPOグループがある。

彼はフリースクール運営のための寄付を求めてきた。私はガイド氏に彼の話が事実かどうか聞いた。

「本当ですよ。インドの中でもとりわけ、ブッダガヤのフリースクールは仏教関係者を中心によく知られています」と答えた。私はその先生にスクールを見せてくれるように頼むと、彼は快く案内してくれた。

十五畳ほどの小さな小屋には黒板と木製の机、椅子が一つあるだけだった。五、六歳から十歳くらいの子供たち数人が、床の上にわら半紙を広げ黒板の文字を書き写していた。

「現在、二十人ほどの生徒がいます。ちょうど今、お昼ですから、みんなランチに帰っています。ここに残っている子たちは家に帰っても食事が与えられないほど貧しいので、スクールで食べさせます。というか、教師が自宅で弁当を作って持ってくるのですが…。今、もう一人の教師が取りに帰っています」

そういった費用も学校運営として必要なのだ。と丁寧で好感の持てる英語で説明した。

なるほどね、カルカタから夜行列車で十時間、はるばるブッダガヤまで来たのだ。どうせ民族衣装や土産物に消えてしまう小遣い。わずかなりとも寄付にあてれば、地獄に落ちた折りには、仏様の慈悲にありつけるかも。と私は調子の良い理由をこじつけ、五十ドル(約六千円)を彼に渡した。

彼は「I respect your kindness.(ご親切に感謝いたします)」と言ってアドレスの印刷の入った領収書を開いた。インドでホテル以外に領収書を見たのは初めてだった。フリースクールの領収書を手にすると、私は発展途上国の子供たちの明るい未来のために多大な社会貢献をしているような、とても誇らしい気分になった。

ホテルに帰る車の中ではガイド氏が「良いことをなさいましたね」と繰り返し、「ブッダのご加護を」と両手を合わせた。私は、ますますいい気分になり、元来物事を何でも都合よく考えるたちなので、地獄に落ちるどころか、私自身がブッダの生まれ変わりではないかとさえ思えてきた。

           *

帰国して一週間ほど過ぎた頃、メールが二つ来た。

一つはブッダガヤのホテルで合った色白君だ。

インドではお世話になりました。いろいろありましたが、無事に帰って来、会社勤めの日常に戻っています。気がつくと僕はインドのことばかり話しています。家族はもちろん、職場でも、友人にも。自分が文化も言葉も通じない凄い所へ行って、目的を達成していたという体験を誰かに言いたくて、言いたくてたまらないのです。これがインドの魅力でしょうか。

そうです、あなたは完全にハマッタのです。と返信した。

もう一つは英文のメールでブッダガヤのフリースクールだった。

Hell, How are you? Ms. Minami.

We are really appreciate your join us……..

フリースクールの支援に感謝していること、ブッダガヤで恒例のお祭りがあり、子供たちが歌ったり踊ったりして楽しんだことなどの報告と、今後の支援を期待しているという内容だった。

私は毎月二千円くらいの寄付ならしてもいいかなと思った。一ヶ月のサラリーが五、六千円の国では少ない額ではないはず。そんなことを考えながら謝辞の文を読み終え、文末のサインを見て飛び上がった。

学校長 スーリア・カーン

ス、スーリアだって! 

あのニューデリーで私からお金を掠め取って行った、あいつか!

私はあの強欲男のスクールに寄付までして来たのか!

さらにいい気になって運営費の支援まで考えていたなんて!

泥棒に追い足しとはまさにこのこと。私はここまで話がめぐってくると、自分の愚かさが滑稽で思わずケラケラと笑い出してしまった。

スーリヤは故郷ブッダガヤでフリースクールを作りたい、と語ったあの夢を、彼なりの方法で実現させていのだ。「やられた!」という悔しさと自らへの笑嗤は次第に彼への敬服に変わっていった。

学校長 スーリヤ・カーン。貧しい子供たちに無償で教育を受けさせるフリースクールの学校長。あの若い先生も子供たちも、スーリヤのことを慈悲深い仏様のように思っていることだろう。よもやニューデリーで日本人からお金を搾取しているなんて考えもしないはずだ。こんな形でスーリヤと出会ってしまったことが残念だった。

私はブッダガヤに返信のメールを打った。連絡をくれたことのお礼と子供たちの健やかな成長を喜んでいる事。そして残念ながら継続的な支援は難しいと付け加えた。英語のスペルを確認しようと本棚の辞書に手をのばすと、机上の一輪挿しに黄色い薔薇がほころび始めているのに気がついた。

底なしの貧困という地上の地獄。まともな方法では這い上がれないに違いない。そこにようやく咲いた花一輪。それがスーリヤの夢なのかも知れないと、ふと思った。

                                

                             了

関西で学べるインド式健康法アーユルヴェーダ・ライフ|南想子の教室

ナマステ。インド式健康法アーユルヴェーダにようこそ。健康は正しい食事と生活習慣でつくられます。この教室ではアーユルヴェーダの健康理論を基にスパイス・瞑想・セルフエステを日常生活に取り入れた生活習慣を目標にしています。あなたの体質あったヘルシーライフスタイルを一緒に見つけましょう。

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