ボリウッドの偽役者たち

「What? The movie!? (えっ? 映画の製作現場を見たい、ですって!?)」

「Yes. そう、私インド映画大好き」

「そんなこと出来るわけないでしょ。あそこは、ああいうところはですね、ツーリストの行くところじゃないです。観光地ではないんです。みんな撮影のために一生懸命働いているんですよ」

「あら、私、ツーリストじゃないわよ」

「なら何ですか?」

「女優の卵…かな?」

あきれ返ったガイドの口からは返事もなく「とても、そうは見えませんがね」という冷めた目つき。卵なんて割れてみなければ、光輝く女優が生まれるか、蛇や蛙が飛び出すかは解らないではないか。まぁ、私という卵からは奇妙なインドオタクしか出て来ないだろうけど…。

深夜のムンバイ国際空港でホテルへの迎えに来たガイド、ウダイ君との最初の会話だ。20代前半の小柄。グレーのカッターシャツをきちんと着た真面目で人の良さそうな青年だ。

ここムンバイは古くは、アラビア海沿いの漁師の村で、土地の女神に守られてきた小さな漁村だった。それが今やインド最大の商業都市として繁栄している。この町の発展に関与する移民移住者を国籍も宗教も関係なく受け入れてきた寛容さが、インドで一番忙しい空港と港を築き、全インドの貿易取引の50パーセントを占めるに至った。ムンバイはインド随一のビジネス拠点だ。

美しいアラビア海の沿岸線にはイギリス植民地時代の煉瓦造りの古い建築物とビジネスオフィスが入った近代的なビルとが混在して立ち並んでいる。

若者たちはビジネスチャンスをいつも夢みて、皆アンテナを高くし、しゃれた服装で颯爽と歩いているように見える。

ムンバイはまた、ビジネスだけでなく映画大国インドの製作拠点となっている。イギリス植民地時代ムンバイはボンベイと呼ばれていたのでアメリカ映画の拠点ハリウッドを文字ってボリウッドと呼ばれてきた。しかし独立後50年以上たった最近になって、本来の名称に直そう運動の高まりからムンバイに改称されている。これも将来はボリウッドからムリウッドに改称されるのではないかと思うと、日本人の私としては、非常におもしろくない。

ウダイ君が来てくれた時の旅行スケジュールは、大晦日ムンバイで1泊。翌日、国内線で南インドに行き正月3日間滞在。4日後の昼過ぎにはムンバイに戻って2泊し、夕刻、帰国の国際線にチェックンの予定だった。

「私のスケジュール表は持っているのでしょ。4日後、ここに戻る時までになんとかならないかしら?」

「4日後のエスコーターはぼくではありませんよ」

「あなたに変更は出来ないの?他のエスコーターだとしてもあなたの同僚でしょ」

「できなくもないですが…。」

「じゃ、よろしくね。ここはインド映画の発信地、ボリウッドでしょ。ムリウッドにはならないわよね」

「ムリウッド。それではダメなんですか?」

「ダメよ」

「どうして?」

「ムリは日本語でImpossible(不可能)だから」

ケラケラと笑うウダイ君。初めて見せる笑顔。白い八重歯が可愛い。

                                                   🔶

4日後、昼過ぎに南インドから戻ると、ホテルにウダイ君から電話があった。

「ハッピーニューイヤー! 南さん。南インドはいかがでしたか?」

「ハッピーニューイヤー! ウダイ君。すばらしいところだった。また行くわ、絶対行く」

「グッド!」

「ところで、この電話は新しい年にグッドニュース伝えるため?」

「そのことですが、撮影所見学の仲介人を見つけました」

「仲介人!? そんなものがいるの?」

「ムンバイで一番大きな撮影所でアクシャイ・カーンとアイシャワリア・ライが別々の映画を撮影中です」

「アクシャイ・カーン!! アイシャ!!」

私はアクシャイのDVDを以前、北インドで買って何枚も持っている。彼のコメディはバツグンだ。アイシャは1998年のミスインターナショナルで日本には「ジーン」という映画で来た。あのラブストーリーは最高だった。

「Weldon! Uday!!(でかした!ウダイ君!!)」

「それで、その仲介人から明日電話が入ります。うまく言ってくださいよ。

南さんは日本の女優の卵で、インドに映画の勉強に来たことになっていますから」

「えっ! あれは、ほんの冗談だったのに…」

「もう、言っちゃいましたよ」

「えーっ!!」

「どうしますか? 諦めますか?」

「いや…。う〜ん。いや…やっぱり、行きます」

「行きましょう!」

電話を切ると、私は嬉しさのあまりハッピィニューイヤー! と叫びながらベッドの上を跳ね回った。そして最後にはシーツをつかんだままベッドから転げ落ちた。

                                                          🔶

電話は翌朝、ホテルのレストランでパスタを食べている時にかかってきた。フロントから転送された電話の子機をテーブルで受け取った。

「ハロー?」男の声が丁寧な英語で聞こえてくる。こんな上品な英語は使ったことがない。おまけに電話だ。うまく話せなかったらどうしよう。ドキドキしながら口の周りのケチャップをナプキンで拭い取った。

彼はホテルから撮影所までは遠く、内部も敷地が広いのでタクシーを1日貸し切る事を提案した。また見学手続きのためにタクシー代を含め100ドル(約1万円)程かかると話した。もちろんO.Kだ。

私はインド映画に魅了されて日本から勉強に来た者です。「ぜひとも撮影所を見せていただきたのです」と言い「New year gift for me.(私にニューイヤズギフトを下さい)」と物乞いのように繰り返した。

彼は「No problem.(問題ない)」と答え、話は拍子抜けするほど簡単にまとまった。

それから3時間後の昼前。電話で約束したとうりホテルのロビーで待っていると、洒落た赤いストライプのカッターシャツを着た小柄で若いインド人が現れた。私は南インドで買ったばかりのブルーと白の衣装を着て彼を出迎えた。民族衣装を着ると誰と会っても暖かく迎えてもらえそうな気がする。ホテルの前で彼が乗ってきたタクシーに二人で乗り込み、途中の道でウダイ君を拾った。仲介人の赤シャツは運転席のとなりに移り、私とウダイ君は後ろで並んで座った。

「ムンバイには撮影所が数え切れないほどあるんです。ビルの一室で部屋の中専門に撮っている小さな撮影所もあります。でもなるべく大きな所というご希望でしたので、THE FILM CITYをご案内します」

ウダイ君の声が弾んでいる。THE FILM CITYをまるで、ショーのオープニングセレモニーのように声高らかに発表した。

「実は、僕も初めてなんです。映画の撮影所なんて、楽しみだなぁ。いろんな女優さんや俳優たちに会えるのかなぁ。会えたらいいなぁ」と夢心地だ。

「ありがとう。私、嬉しくて昨夜は眠れなかったわ」

私はインドの可愛い女優が良くやるように両手で頬を挟んで頭を傾け、ニッコリとした。目があったウダイ君は映画女優の夢から覚めたらしく窓の方に視線を移した。「どう見ても、似合わない」と言いたげだ。

「どのくらい大きいの」

「うーん、山が5〜6個ある撮影所ですから、車で全部回っても一日では足りないでしょう」と赤シャツ。

「山? の中に撮影所があるの?」

                                                             🔶

車はスラム街を通り越し、野菜や鶏を売っているバザールの人ごみの中を土埃をあげて突き抜けた。やがて人影もまばらになってきたころ、道の突き当たりに鉄格子が見えてきた。

「Visiters are not alowed.(関係者以外立ち入り禁止)」と書かれた板が掛かっている。鉄格子の前で車が止まると、格子の横にある小さな小屋から、ライフル銃を肩掛けした制服姿の男が一人出てきた。対するこちらは赤シャツが助手席のドアから降りた。格子の中と外で何やら話し合っている。

息を飲むシーンだ。うまく行くだろうか。制服男のライフルがこちらに向けられたらどうしよう…ドキドキした。突然、赤シャツが後部座席の私とウダイ君を指差した。私は俄か女優よろしく、澄ました顔に扇子で風を送って見せた。インドに紙扇子はない。外国人強調効果を狙った。

しばらくすると、赤シャツが戻ってきた。格子の横に渡した鉄のバーがはずされゲートは二つに割れると車は発進した。赤シャツは後部座席の私たちにむかって、ニッコリとし「No problem(問題ない)」といった。

                                                              🔶

撮影所の中はまるで、サファリパークのように道の両側に様々な撮影用の家、牧場や建築中の建物があり、撮影用のカメラがセットされ、その中で誰が俳優で誰がその他大勢なのか解らない集団がセリフを言ったり、演技をしていた。また、カメラを担いだグループもぞろぞろと移動していた。

赤シャツの案内で私はいくつかの撮影セットを見せてもらい、何とか言う、映画監督や数名の製作スタッフを紹介してくれた。記念写真もちゃっかり撮らせてもらって超ゴキゲン。

ちょうどアイシャ主演の映画撮影中だったので彼女の姿を期待したが、室内シーンで大勢のエキストラに囲まれており見ることは出来なかった。

車から降りてしばらく辺りの様子を見ていると、道端でカメラマンや採光板を掲げたスタッフが20名くらい集まっているのが見えた。

「あっ!アクシャイ、カーンですよ」

「えっ! どこどこ!!」

ウダイ君が示した方に目をむけると、撮影スタッフに囲まれたアクシャイが椅子に座ってチャイを飲んでいた。ウダイ君は興奮気味だ。

「サインを貰いましょう。南さん!!」

「えっ!サイン!?」そんなことは考えもしなかった。

「だって、紙がない」

「えっ!ここまで来て、紙がないって!」

ウダイ君、落ち着け。見苦しいぞ。

「だって、私、触れ込みでは女優の卵でしょ。いくら相手は外国の有名俳優とはいえ、同業者にサインを求めたのでは日本の女優、南想子の名がすたる」

「何言ってるのですか、あなたは! あっ、あっ。もう撮影が始まってしまいますよ。アクシャイたちが行ってしまいます」

ウダイ君は慌てて、ワイシャツの胸ポケットからペンと自分の名刺を取り出し、動きだした撮影スタッフの中に駆け込んで行った。

アクシャイは立ち上がると意外に背が高く、スタッフ全員を頭一つ分見下ろせるほどだ。スタッフのひとりから疎ましげに追っ払われようとしているウダイ君。懸命にアクシャイにサインを求めている。

やれやれ、何でそんなにサインがほしいのかなぁ。車に寄りかかりあきれ顔の私と赤シャツ。その私にいきなりウダイ君は振り向き、こちらに指差した。周りにいるスタッフ全員が私に注目。えっ、20人の褐色の顔がこちらを向き40個の白い目が並んでいる。こ、これは何なのだ、ウダイ君。

仕方なく私は涼しい顔で横を向き、バッグから扇子を出して女優の卵の貫禄を見せた。

                                                              🔶

「こ、これは僕の一生の宝物です。あなたにはあげませんからね」

アクシャイのサイン入り名刺を収めたワイシャツの胸ポケットをしみじみと押さえ、ウダイ君はガイドの本分も忘れて上の空だ。車に乗り込みもどり道を下っていくと、また別のカメラマンたちがぞろぞろ上がってきた。

「あっ、アイシャのグループです!撮影が終わったんですよ、南さん。行って見ましょう!僕の妹はアイシャの大ファンなんです!」

私は笑いを吹き出してしまった。ウダイ君は日本から来た女優の卵を出しにしてサインを貰いまくるつもりらしい。

芝生の緑が美しいアイシャの撮影現場に着き、車から降りると製作関係者はすでに居らず、日雇いの、その他大勢と思しき男女がうろうろしていた。女たちの着ている赤や黄色の原色のサリーが芝生の緑に映えて美しい。

「どうも、アイシャはいないようですね」赤シャツが言った。

ウダイ君はがっかりした様子だ。あきらめて車のほうに戻りかかった頃、警官の制服を着て、警棒を握った5人が私たちを取り囲んだ。

日本の女優の卵と記念写真を撮りに来たエキストラかしら…。

「ウダイ君、彼らも撮影用なの?」

「いえ…どうも、彼らは本物のようです」

私は彼ら一人ひとりの褐色の顔を見回した。立派な口ひげに厳しい目つき。やはり本物はリアリティが違う。ウダイ君は怪訝な表情で横にいる赤シャツを振り返り、赤シャツは立ちすくんだまま凍りついている。私は彼の口から「No problem.(問題ない)」の一言を期待したが出てこない。仕方なく私はバッグのカバーを開け、涼しい顔で扇子を取り出すしかなかった。

                                                          🔶

 結局、私が2000ルピー(約5000円)の罰金を払って解決した。

警察詰所でこってり絞られたウダイ君と赤シャツ。

赤シャツが映画関係者というのは真っ赤なウソで、彼はしばしば日雇いエキストラで採用されてきた。従って撮影所の内部が詳しく、映画関係者との面識もあった。友達にそれを自慢げに吹聴していたところ、回りまわってウダイ君の知るところとなり、ウダイ君も映画俳優に会えると大喜び。赤シャツは仲介料を期待して、私の撮影所見学が実現したのだった。

ムンバイでは珍しいことではないらしい。ここに暮らす人たちはチャンスをビジネスに替える才能の持ち主だけが生き延びられる。

ボリウッドの偽の女優に偽の仲介人。卵を割ってみると女優や蛙だけでなく、驚くような偽物さえも飛び出してくるのもビジネスの醍醐味。

                                                             🔶


ホテルへの帰り道。タクシーはアラビア海の海岸線を走る。海に沈む夕陽が美しい。運転手は無言で車を走らせ、ウダイ君と赤シャツは沈黙。全員が行きと帰りは大違いで、ウダイ君のオープニングセレモニーの興奮はフイナーレの喝采も無くアラビア海に沈み込んだままだ。

「I`m so sorry. Uday. (ウダイ君、ごめんなさい)」

「Why? It`s not your fault. (どうして? あなたの責任ではないですよ)」

「But…(でも、映画の撮影所を見たいと言い出したのは私だわ)」

「Sorry. I am…(ごめんなさい。こんな事になるなんて僕も思わなかったんです)」と赤シャツが両手で頭を押さえたまま助手席から振り返った。

「女優の卵は、やりすぎだったわ。でも、こんな素敵な経験をさせてくれてありがとう。私は二人にとても感謝している。素晴らしいニューイヤーズギフトをありがとう」

「僕も感謝しています。アクシャイに会えるなんて幸運でした。サインは素敵なニューイヤーズギフトです。彼のような成功者になれるように頑張ります」

赤シャツが頭を掻きながら、少し照れ気味に親指を立て「ハッピーニューイヤー」と言った。私とウダイ君も彼を真似て親指を立て「ハッピーニューイヤー」と返した。

その後ホテル到着まで、今日の豪華でスリリングな体験話で盛り上がったことは言うまでもない。

ハッピーニューイヤー。今年も面白い年になりそうだ。(^◇^)

関西で学べるインド式健康法アーユルヴェーダ・ライフ|南想子の教室

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