名画の村カジュラホ
「Are you alone? (あなた一人なの?)」
「 Yes, I am.(はい、そうですが…)」
「Just alone? (たった一人なの!?)」
ホテルのフロント嬢が、しつこく繰り返すので私は当惑した。エージェントの手違いで二人か三人の予約になっているのだろうか。
「日本から予約してあるはずです。何か手違いでも?」
「いえ、そういう訳ではないの。すみません、確かにご予約はお一人ね」
額の広い褐色の丸顔に慌てて作った笑みを浮かべ、彼女は私にパスポートの呈示とサインを求めた。そして、ポーターにルームキーを渡しながら「二階へ上がってすぐのお部屋です。大きな窓から蓮池が望める眺めの良いお部屋ですよ。マダム」と言った。
ニューデリーから国内線で2時間後、飛行機はカジュラホに着いた。空港からタクシーを拾いホテルに到着したのは昼過ぎ。外は小雨。
八月の北インドは雨季だが、その中でもここカジュラホの降水量はダントツ。「ジャングルの真ん中を刈り込んで、人が住み始めた」とインド人がジョークで言うほどの密林地帯だからだ。そのため雨季の悪天候で飛行機の欠航も頻繁らしい。それでも、どうしてもこの村を訪れたかった。
*
私の尊敬する、秋野不矩(あきのふく)さんは日本画家で文化勲章受章者だ。秋野さんは五十三歳の時、インドのタゴール大学で日本画の客員講師として一年を過ごした。それがきっかけとなり、以後渡航を繰り返しインドを描き続けた人だ。千九百九十九年の文化勲章受賞の記事で私は始めて秋野さんの存在を知った。いつか、この人の作品を見に行こう、出来ればお会いしたいなぁと思っていた。
ところがそれから二年後、秋野さんは九十三才で他界された。
テレビでその訃報を知ると矢も盾もたまらず休暇を取り、新大阪から新幹線に乗った。浜松に行く。空は朝から雨模様で、京都を過ぎたあたりから激しくなった。窓を打ちつけては流れていく大粒の雨を見ながら、何故もっと早く行かなかったのかとひどく後悔した。秋野さんが生きている間に行ったところで、何も変わらないのに…。
静岡県天竜市。天竜川の濁流を見下ろす丘の上に「秋野不矩美術館」はあった。そこで初めて見た秋野さんの大作「村落」に息を飲んだ。土壁と葺屋根の民家、出入り口が向き合う細い路地。落日を思わせる橙黄色の風景に黒い子山羊がたたずんでいる。「地名:カジュラホ村」と書いてあった。
*
「日本人デスカ?」
「はい」
「オ一人デスカ」
「そうよ」
「隣ニ行ッテモイイデスカ」
「ええ、どうぞ」
カウンターの端に座っていた背の高いインド人がグラスを持って私の隣に移った。二十五、六歳くらいのベージュのカッターシャツと焦茶のチェックのズボンをこざっぱりと着こなしている。流暢な日本語だ。日本語通訳か、観光ガイドか、あるいはその方面を勉強中だろう。こういう手合いには度々日本語の練習につきあわされる。
ホテルに到着した日は一日雨だったので、仕方なく部屋で本を読み、ルームサービスで夕食をとった。カーテンを開けた時には、窓硝子に黒い体に腹だけが赤いヤモリが張り付いていて悲鳴を上げたが、井戸が村の生活水であるローカルなエリアにしては、こじんまりと設備が整ったホテルだった。私はショップで買い物をし、その後、ラウンジのカウンターでコーヒーを飲んでいた。
「ホントウニ、オ一人デスカ? インド人ガイドモ、イナイノ?」
「そうよ、おかしい?」
「オカシイ。アナタノヨウナ、キレイナ人ガ、一人ナンテ、オカシイ」
「あなたの日本語に百点満点をあげるわ」
「アハハハハ! アリガト、ゴザイマス」
「チェックインの時にも言われたの。一人なのがずいぶん不自然みたいに。この辺りはよっぽどツアーが多いのかな」
「タイテイノ日本人ハ、ガイドト一緒ニ来テ、ココデ一泊ダケシマス。アナタハ?」
「四泊」
「四泊モ!」
男はカウンター内にいるバーテンにヒンディー語で何か話しかけると、バーテンは吹き出した。
「何がおかしいの?」
「知ナライノ? ホントニ知シラナイノ?」
彼は両手を大げさに広げ肩をぴょこんと上げて、バーテンにおどけた顔を見せた。そして、ぶ然とする私に内緒話をするように肩を寄せて話し始めた。
重厚な口ひげの下で見え隠れする彼の唇が異様に赤く、ヤモリの腹を思い出させて気味が悪かった。
カジュラホ村にはユネスコに登録されている二十二の世界遺産がある。それは東西と南に分かれて点在するヒンドゥー教の寺院群だ。もとは八十五あったのだが、十四世紀イスラム勢力により破壊され、二十二寺院だけが残っている。そして空に聳え立つ寺院の表壁にはびっしりと男女混合象がエロティシズムに浮き彫りそれている。つまり、この村の名前カジュラホの「カジュル」は「木」と言う意味で、もともと木しかなく、村の人口を増やすために子作りのノウハウ(カーマ・スートラと呼ばれている)を寺院に彫りこんだというわけだ。そして、現在はインド人の新婚旅行スポットとして学習と観光の場となっている。
う~ん。印度渡航五回。自称インド通を気取っていた私は、まさにギャフン!である。カジュラホ滞在の四日間。なんか、いやーな予感。
その後も雨は降り続いた。私はサイクルリキシャ(自転車を動力とする人力車型の乗り物)を一日五十ルピー(約百五十円)で借りきって、ホテルの前に待機してもらい、雨が上がった時にあちこち観光して回った。しかし、いざスケッチブックを広げているとポツポツと降り出し、慌てて寺院や巨木の陰に駆け込まなければならなかった。そんな具合なので、ついに秋野さんの絵の風景を見つけることが出来ず、とうとう出発前日となってしまった。
雨に降られ、びしょ濡れになってホテルに戻ると、フロント嬢が「マダムにお客さんです」と言う。「この私に?」彼女の示した方を見ると、ロビーのソファに三十歳くらいの小柄な男が座っていた。
誰だろう? 訝しげに近づくと、彼は立ち上がり、丁寧に腰を折ってお辞儀をした。年よりじみた物腰だった。ワイシャツのポケットから茶色の染みのついた名刺を出した。トラベルカジュラホ。旅行会社のエージェントだった。明日、私が乗る予定の飛行機が欠航になったという知らせだ。そして、ニューデリーまで陸路で行くためにはカジュラホから車でジャンシー駅まで行き、そこから列車に乗り換えるしかないと説明した。
「欠航ですって! なんということ。で、時間はどのくらいかかるの?」
「たいしたことはありません。カジュラホからジャンシー駅まで車で五、六時間です。そこからニューデリーまでは列車で十時間ほどですから。まあ、列車のことですから二、三時間の遅れはあるでしようが、知れてます。」
―――し、知れてるですって! ニューデリーまで飛行機でわずか二時間の距離を、十六時間以上かけて帰るわけ!
車のチャーター代を聞くと、飛行機とほぼ同額だった。私は詐欺ではないかと疑った。夕食後に電話で返事をすると言い、とりあえず引き取っていただいた。そして、部屋に戻り、日本と提携しているニューデリーの旅行会社に確認の電話をいれた。飛行機の欠航は事実で、ニューデリーオフィスからの指示で地元のエージェントが訪ねてきたことが解った。
―――最悪! ホテルでも村のあちこちでも「女一人で何しに来た」と変わり者扱いされ、滞在中はずーっと雨。挙句の果てに帰りの飛行機は欠航!
不運続きを嘆いてみても、明日中にニューデリーに戻らなければならない。帰国の国際便は取ってあるのだ。私は仕方なく、コーヒー色の波模様のついた名刺をポケットからまさぐり出した。
翌朝十時にチェックアウトを済ませた。前夜、地元エージェントとの打ち合わせ通り、ロビーで待っていると彼がドアから入ってきた。
「すみません。僕、携帯電話忘れてきました。ジャンシーに行く前にちょっとだけ、家に寄ってくださいね」
外は重たそうな曇が空を覆っていた。今にも降り出しそうだ。しかし、風も無く、穏やかな天候に思える。この程度の空模様で欠航になるのだろうか?
「カジュラホ便のフライトは天候で止まるのではないのですよ」
「じゃあ、エンジントラブル?」
「いいえ、乗客が少ないからです」
彼はケロリとした顔で応え、私はキレそうになった。
私とエージェントが乗り込むと車はすぐに発進した。赤土のあちこちに水溜りが出来ており、そこを通るたびに車は大きくバウンドした。その度に私もエージェントもゴムまりのように跳ね上がり、窓や天井に肩や頭をぶつけた。
痛い、痛い! なんとワイルドな道のり。両側にはバニヤンの巨木が続いている。樹齢百年は経っているだろう、枝枝から糸のように無数の毛細根が伸びている。地面に到達し、新たな楚を築いているものもある。どこまで続くのだろう。駅に到着するまで体がもつだろうか。やがて前方に白い牛の群れが見えてきた。
「すみません、南さん。この先、ちょっと曲がったところが僕の家なんで、そっちに着いたら車の中で待っていてください」
―――エーッ、ここまだカジュラホなの?
私はため息が出た。このでこぼこ道にこれから五、六時間も耐えなければならないのか。すでに体のあちこちが痛み始めている。
車は三十頭ほどの痩せた牛の群れを後にし、右に折れると細い道に入っていった。車窓の外では煉瓦を積み上げた家々が軒を連ねている。やがて、土壁と葺屋根の家が建ち並び、細い路地では赤いサリーを着た女が七厘に火をくべていた。子供たちが裸足で走り回りっている。そして、仔山羊が濡れた藁を食んで…。
あれ。こんな様子、以前見たような気がする。何処だろう。デジャブかなぁ。うーん、なんか懐かしいなぁ。
―――あっ! この家並みは、まぎれもなく… 秋野さんの「村落」だ。
探し回った名画の世界が窓の外で次々に繰り広げられていく。肩や腰の痛みは、もはや消え去り私は車窓に赤いヤモリのように張り付いた。
―――こんな所にあったんだ…。
その、のどかな村人の様子に私は心の中がじーん、と暖って行くような気がした。そして、降り出した雨でかすれ消えていく村落を、名残惜しみながらいつまでも見つめていた。
―――秋野さぁーん。私、頑張りますぅ。
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