マイソールの幽霊宮殿
やたら眠くて、レストランで夕食をとり、食後のコーヒーを飲んでいる最中から、うつらうつらし始めた。部屋に戻る頃にはすでに千鳥足、八時にもならないうちにベッドへもぐりこんだ。
*
ここは、カルナータカ州、マイソール。デカン高原の内陸部にあたる。南インド、シェンナイ国際空港から列車で七時間行ったところだ。
牛を使って田を耕し、羊を放牧する、のどかなで明るい農村地帯。気候が温暖でほっておいても草木がにょきにょき生えて来るらしく、年に三回、米の収穫がある。だから、青田の隣では、すでに稲刈りをしている。デカン高原は空気が薄いのか、眠りを誘う風が吹いているのか、とにかく私は一日中うたた寝して過ごした。田を耕す村人も、牧草地に向かう羊も、頭に水壷を載せた女たちも、みんな眠たそうだ。
従って、夜、へんな時間に目が覚めてしまう。ベッドの中で寝返りを打つたびに目が冴える。手を伸ばし、窓下の月明かりに時計を持っていくと、午後十一時。しかたなく起き上がる。ドアを開ける。すでに階下のレストランもショップも終わっており、ひっそりとしている。ホテルの周囲に街の明かりは無い。テラス風の通路の向こうは黒々とした樹木の影。星が眠たそうに瞬きをし、月がプールの中で揺れている。
このホテルは丘の上の林の中にある白大理石の宮殿で、もとはインド一、二の勢力を誇ったマイソール藩主の別荘だった。一階のダンスホールを古典音楽の舞台とレストランに、二階の小部屋を客室に改造したものだ。本邸のマイソール宮殿は現在博物館として一般公開されている。
このヒンドューとイスラム建築を混合したインド・サラセン様式の宮殿は長方形をしており、二階の各部屋は細密彫刻の美しい手すりで囲まれたバルコニーのような外側通路でつながっている。
一周したが誰にも合わなかった。明かりの洩れる窓も無い。また自分の部屋の前に戻った。ベッドにもぐり込んだが、どうにも目が冴えて眠れない。月明かりがちょうど枕の位置に落ちているためだと気がついた。部屋の天井は高く、本物の明り採り窓が高いところにあるので、どうにもならない。しかたなく冷蔵庫を開けた。瓶ビールが二本入っていた。うーん、ミネラルウォーターかジュースが欲しいんだけれど。まぁ、ビールでも飲めば眠気もやってくるかな?どうせ誰もいないのなら部屋でこそこそ飲む必要もない。部屋のサイドテーブルと椅子を通路に出し、月夜の森をながめながら飲むことにした。木々の奥からフクロウの声が聞こえる。静かだ。多分今夜の泊り客は私一人だろう。ビールはすぐになくなってしまったが一向に眠くない。
通路の暗がりから人影が現れた。背の高い男だ。
「Good evening.(こんばんは)」
「Good evening. Madam(こんばんは、マダム)」
男はこちらに近づきながら応えた。
「私、ウォーターが欲しいんだけど、ルームサービスは、まだやってるかしら?」
返事はない。
「やってるんだったら、二本頼みたいのだけれど…」
やはり、返事はない。男は踵を返して、すたすたと行ってしまった。へんな男だな。しばらく水が届くのを待ったが来ない。やがて眠くなってきたので、部屋に戻った。
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翌朝、朝食を食べに階段を下りて行った。清掃スタッフが屈んで大理石の白い階段を磨いてる。階段の真ん中には噴水があり、両側の壁には王家一族の肖像画が何枚も掛かっている。
「Good morning .(おはよう)」声をかけると
「Good morning, Madam.」と彼は私を見上げて、ニッコリした。
私はこれら肖像の人物が誰で、そしてまだ生きているのかと聞いた。が、彼は英語が解らないらしかった。インドは地域により言語が違い、この辺りはカンナダ語が使われる。私は絵を指さし「who?(誰?)」と単語で聞いた。老いた小柄な男は目を細めて立ち上がった。階段を降りながら一人ひとり指し、まるで自分の身内を紹介するように、誇らしげに名前をあげて行った。
昨夜の男は清掃スタッフか誰かで英語が解らず、私の注文は通っていなかったのかもしれないと思った。しかし、念のためにと朝食のレストランでその事を話した。後で請求書が廻ってきてもいやだ。
「No, Impossible.(そんなはずはありません)」
ウェィターが怪訝そうに言った。ルームサービスは十時半で終わりです。スタッフは十一時には帰ります。みんなこの丘の麓にすんでいますから。
「でも、確か十一時半ごろだったわ。背の高い痩せた人に…」
「痩せたって、彼ぐらい?」隣で銀のティーポットを持っている男の方を振り向いた。
「ううん、もっと背が高い」
二人、そんなスタッフいるか? といった顔つき。夜間はフロントのスタッフ2人と警備員しか居ない。フロントは腹の突き出た体格の良い男だ。警備員ならライトをつけているはずだし、通常一人では巡回しないといった。
「ふーん」と腑に落ちない顔をしていると「マダム、ビールをすこし控えては…」と逆にからかわれてしまった。
*
ホテルで車をチャーターし、マイソール博物館や巨大な牛の像が祀られたチャームンディーの丘などに行った。マイソールは有能な藩主により教育や経済が発達、栄華を極めてきた州。ところが1799年、第四次マイソール戦争でイギリス軍に敗れ、以後ガンジーによるインド独立までイギリス支配下に置かれた。市内から北東十五キロほど行ったところにシュリーランガパトナムという戦死者を悼む城砦跡がある。
夜七時ころ、ホテルに戻り、階段を上がると今朝の清掃スタッフが嬉しそうに出迎えてくれた。彼と一緒に二階に上がったところで、別の二人が箒とバケツを持って待っていた。二人ともにこにこして「カメラ、カメラ」と言いながら手を振る。写真を撮ってほしいのかと思いカメラを構えると、あたりをきょろきょろ伺い、
「Come, Come.(来い、来い)」と言う。
三人に囲まれる様にしてついて行くと、彼らは重厚な彫り物で飾られたドアの前で止まった。一人が鍵がいくつもついたリングから、一番大きい物を鍵穴に入れ、ガチャリと差し込み、扉を開けた。宝物でも隠してあるのか。私はどきどきした。中は真っ暗だった。彼らの一人が壁のスイッチを押し、電気をつけた。
「わっ!」博物館かと思った。
「Maharani room.(お后の部屋だ)」
そうか、マハラジャ(王様)の宮殿はマイソール市内にある。ここは后の宮殿だったのか。絢爛豪華なドレッサー、ソファ、天蓋のついたベッド。すごーい。
呆然としている私に彼らが「カメラ、カメラ」と言うので私は慌てて今朝の清掃スタッフにカメラを渡し、シャッターの押し方を教えた。調子に乗ってソファに座り、肘掛にもたれたり、ベッドで転げまわった。夢見心地であれこれポーズを取り、こんなことしてていいのかなーと思っていると、ドアの外を伺かがっていた一人が「Go, Go.(行こう、行こう)」と合図した。部屋を出るタイミングは実にスリリングな瞬間だった。
どうも、これは無許可型、特別拝観のような気がする。なんでこんなサービスしてくれるのだろう。三人と客室の方に戻りながら考えていた。
あっ、今朝、肖像画の説明をしてくれたのでチップをあげたんだ。三人は私部屋のドアの前まで来ると、箒やバケツを持ったまま、一段とにこにこして、一向に去りそうに無い。私もにこにこして一人ひとりにお礼を言いチップを渡した。三人は、褐色の顔に白陶器のような輝く歯を一様に並べ、合掌して何度も頭を下げ、嬉しそうにそれぞれの持ち場へ戻って行った。
何て、親切で解りやすい人たちなんだろう。部屋で一人になると、いたずらっぽい笑いが自然とこみ上げてきた。
*
黄瓜のような月が、雑木林の影の上でぽっかりと浮かんでいる。ホテルが寝静まったころ、テラスの通路にテーブルを出し、その夜も私はビールを飲んでいた。瓶ビールにタンドリーチキンもある。レストラン閉店前に運んでもらった。今夜も来るかな。あの痩せ男。ビールを飲みながら、あれこれ考えていた。
突然、いやな想像が浮かんだ。
幽霊ではないか。
たとえば、この宮殿のマハラニに恋焦がれていた兵士がいて、想いを残したまま戦死したとか。あるいはマハラニの恋人で、マハラジャにバレ、象潰しの刑に処されてからだが伸びちゃったとか…。
この宮殿は実際に戦争の歴史をくぐってきたわけだ。なんだか気持ち悪くなってきた。幽霊は私をマハラニだと思って出てくるのか。そういえば若い男のような声だった。頬がかってに緩んでニヤニヤしてきた。
「Good evening.(こんばんは)」
手酌でグラスにビールを注いでいると、背中で男の声がした。ドキリ。今夜は別方向から来たか。おまけに相手が先に口をきいた。
振り返るとやはり、背の高い男が立っていた。
「えっ!」
でも、インド人ではない。アメリカ人か、イギリス人か、とにかく欧米系だ。
「Good evening.」
「What are you doing here?(ここで何をしているんですか?)」
「I am enjoying nice moon viewing.(月を見てるんです)」
男はクスリと笑い、
「Can I join your nice moon viewing? I bring beers from my room.(それでは部屋からビールを持ってきて、あなたと月を見てもいいですか?)」
「Welcome.(大歓迎よ)」
彼は隣の部屋に入って行き、椅子と瓶ビールを二本持って戻ってきた。
イギリス人のコンピーター技師、27歳。隣のバンガロール市に一カ月前に派遣されて来た。四日間休みが取れたので一人で観光している、と言った。
ウェーブのかかった栗色の細い髪。胸や腕はたくましい筋肉でシャツがはちきれそうだ。面長の顔立ちはイギリスのチャールズ皇太子を思い出させた。
お互いに自己紹介やインド観光のことなどを話した後、月を見ながら何を考えていたのですか、と聞くので、幽霊について、と答えた。
「Ghost?(幽霊?)」
「Yes, ghost. Do you believe it?(そうよ、幽霊、あなた幽霊を信じる?)」
「No.(いや、信じない)」
彼が言うには死んだらみんなキリストの御許に召されるのだそうだ。あの偉大なシェークス・ピアを生んだ国のお人にしてはあっさりした死後観だ。もっと、壮大なオリジナリティを期待したのでガッカリした。
しかし、私の死後観は違う。死んだら天国か地獄に行ってしばらく滞在したのちに、生まれ変わって地上に降りて(昇って?)来るのだ。(人間に生まれるか、牛やタンポポに姿形を変えるかは、その時の運、あるいは前世の因果による)何故なら、トコロテン式にどんどん出していかないと天国も地獄のほうも密度が高くなって飽和状態になるからだ。
天国か地獄か、行き場が定まらない迷い子が幽霊。ということで説明がつかないだろうか。と言うと、それが仏教的発想かと聞くので、いや、仏教やヒンドゥーやいろいろ取り混ぜて現実的に考えたマイオピニオンだと答えたら、クックッと笑いだした。
暫く明日の観光の予定など楽しく話した。やがて彼は空のグラスを瓶にかぶせ、そろそろ眠くなってきたので、部屋に戻りお祈りをして寝ます。と言って立ち上がった。
「Do you pry every night before going bed ?( 毎晩、寝る前にお祈りするの?)」
「Sure. Good night. Thank you. (もちろんです。今夜はありがとう。おやすみ)」
「Good night(おやすみ)」
どうも、敬虔な宗教徒らしい。まずい話題だったかな。とにかく彼は今日このホテルに来たばかりと言ったので、昨夜の男とは別人であることは解った。
*
さあて、その日が最後の夜となった。マイソールについた日から、昼間夢遊状態だった私も、やっと目が覚めた。そして、どうにもあの背高インド人の正体が気になっていた。再会のチャンスは今夜しかない。
昼間のスケッチもそぞろにホテルに戻り、明日のチェックアウトに備えて荷物を整えた。レストランで夕食を取り、眠気誘導用ビールのルームサービスをも怠りなく済ませた。
やがて草木も眠る十一時。テラス通路にテーブルを出して彼が現れるのを待った。下の庭園の方からは男たちの声がし、バイクが何台も走り去って行く音がする。ホテルのスタッフが帰って行くようだ。彼らが行ってしまうと、辺りはとたんに静まり返った。スケッチから戻った時に、駐車場には観光バスが一台止まっていた。ヨーロッパ系の観光団、二十名ほど見かけたので、今夜ここに泊っているはずだが、今日もレストランの客は私だけだった。
月が明るい。高栄養の卵の黄身のようだ。日本では月の中でウサギが餅をついているというが、インドでは何と言うのだろう。象が鼻でカレーを混ぜているとでも言うのかな…。
ああ、しかし、今夜は眠い。昼間、精力的に動き回ったせいか、一人旅も終わりに近づくと、疲れも溜まってくるようだ。それなのに、各部屋からぞろぞろ出て来てきた観光客が、酔っ払って声高らかに歌いだしたり、庭園におりて騒ぎ立てたり通路は泊り客がうろうろし始めた。テーブルを出して月を見ている私が奇妙に映るのか、「ここで何をしているのだ」だの「何処の国から来た?」などと、通りすがりに一人ひとりが聞いてくる。さすがに疲れる。
*
翌朝、ベッドで目が覚めた。サイドテーブルが無い。ああそうか、通路に置いたままだ。昨夜の賑わいでは彼も出てきそうにないとあきらめ、また、疲れと睡魔にも勝てず部屋に戻ったのだった。
今日は朝食後、買い物に行き午後のチェックアウトで駅に向かい、四時の列車に乗る予定だ。
レストランに行く階段を降りていくと、例の掃除スタッフ三人がバケツや箒を持って上がってきた。みんなそろって浮かない顔つき。どうしたんだろう。私はにこりとして声をかけた。
「Good morning (おはよう)」
「Good morning. Madam.」
「You look sad. something.(なんだか悲しそうな顔してるわね)」
昨夜泊った団体客からフロントヘ盗難届けがあったらしい。客の勘違いということもあるが、客室での紛失物について、まず疑われるのは清掃スタッフだ。かれらは全ての部屋の合鍵を持っている。へたをすれば失業という憂き目にも遭いかねない。
泥棒!
あの、背高インド人、まさか!泥棒!
私は外国の幽霊よりも、パスポートや現金を失う方がよっぽど怖い。階段で立ちすくんだ私。眠気はたちまち寒気に変わり、現実味のある恐怖が背中をざわざわと降りていった。
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