ジャスミン
「You came from India! (インドから来られたんですね!)
「Yes, why do you know that? (ええ、どうして解るの?)」
「Because you have a Jasmin on your head! (頭にジャスミンの花が!)」
褐色の肌に健康そうな白い歯を見せてホテルのポーターがにっこり笑った。
後ろ髪を束ね、ピンでとめた白い房状の花飾りは私の動きに合わせて揺れ、
甘くて上品な独特の香りを放っていた。
前日深夜、南インドシェンナイ国際空港で搭乗し、夜明けにシンガポールに着いた。シンガポールで10時間のトランジット後、再び飛行機に乗って関西国際空港に行く。到着は翌朝6時。私はそのままスーツケースを持って仕事に行かなければならなかった。正月の旅行ラッシュでフライトが取りにくく、こんなハードなスケジュールになってしまったのだった。
10時間あればシンガポールで観光でもと考えたが、帰国後空港から職場に直行、それから一週間休みがない。少しでも睡眠をとっておいた方がよいかと思い、ホテルで休憩することにしたのだった。
シンガポールの到着口に着く時間は普段の生活なら熟睡中の深夜二時。眠い。空港のターンテーブルから出て来るスーツケースを気の遠くなる思いで待った。ゲートには通常の二倍をふっかけるタクシードライバーのバリケード。彼らを押しのけ規定料金のタクシーを交渉しやっとたどり着いたホテル。私はもうクタクタ。早く寝たい。柔らかい枕に頭を沈ませ、ふわふわの羽根布団に横たわり、安堵と心地よさに早く潜り込みたい…。
そんな私の切実な想いをよそに、少年と呼べるほど若く小柄な彼は部屋に荷物を運び込むと、ニコニコしながら続けた。
「インドはいかがでしたか?」
新年元日のヒンドュー教寺院は何処もとても混んでいたこと。日本との気温差が大きく暑さで体調をこわしたこと。寺院で知り合ったインド人一家が空港まで見送りに来てくれて、帰路の無事を祈ってこのジャスミンを私の髪に付けてくれたこと等を手短に話した。彼は嬉しそうに私の話に何度もうなずき、そしてさらに食べ物や大地の色や風の匂いなど細かく聞きたがった。うんざりした私は「君はインドにいたの?」と聞いた。
「いいえ、僕の家は貧しくシンガポールから出たことは一度もありません。
僕の祖父母はインドからの移民でした。祖母は年を取るにつれ、インドに帰りたがっていました。土に返えるなら祖国の地でと。しかし、その願いも虚しく二年前に他界しました。祖母がよく髪につけていたんです。ジャスミンを。だから、つい、その香りが懐かしくて…」
「そう、ジャスミンはお婆様にとって唯一の祖国だったのね」
「僕の父はマレーシア人の母と結婚して、僕を学校に行かせてくれました。お陰で、僕はこの仕事に就くことができました。」
彼の話を聞くにつれ、三世代かけても叶わぬ遠い所へ易々と行って帰ってきた自分が申し訳なく思えてきた。
「僕は、いつかインドに行きたいんです。自分の祖国を知らないなんておかしいでしょ。一生懸命働いて、家族を連れて行きます」
胸を張り屈託ない笑顔でそう言うと、不釣り合いなほど大人びたお辞儀をして彼は出て行った。
気が付くと窓のカーテンから朝陽がもれていた。眠気はすっかり覚めてしまい、私は窓際に行ってカーテンを引き開けた。すでに海から上った太陽は限りない青さを空に広げていた。キラキラと輝く眩しい海に向かい、私は彼の夢がいつか必ずこの海を渡っていくことを祈っていた。
了
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