ベンガルの踊り子
ああもう、だめだ。始まってしまった。着いたころは場内真っ暗、席が見つけられるかなぁ。いや、それより入れてもらえるかなぁ。
東インドと言えば、インド三大舞踊のなかでも寺院彫刻の巫女が息を吹き返して踊りだしたと讃えられる、あの優美で幻想的な「オデッシー」に違いない。
今頃は古典音楽で美しい衣装をまとった巫女が踊っているのだろうなぁ。
東インド、ベンガル地方から来たその舞踊団の公演に、不覚にも遅れてしまった。私は息を切らせて国立民族学博物館へと急いでいた。参加費こそ無料だったが、ハガキでの申し込みが必要で定員450名になり次第締め切りとなっていた。私はその催しを知ったのが、ずいぶん遅かったので、もうだめかなと思っていたところ、参加可の案内ハガキが届いたのだった。このひと月あまりどんなに楽しみにしていたことか。なのに、遅刻とは。原因は開演時間を間違えていたからだ。
あたふたと講堂のホールにたどり着くと、軽快な太鼓で古典音楽が響いていた。2時間公演なので半分は終わっている。早速、受付の人に参加ハガキを見せると「中は暗いです。ご案内します」と言って親切にも一緒に入ってくれた。分厚いドアを開き、暗幕をくぐる。彼女はペンライトで空いている席を探してくれたが暗い座席にはずらりと後頭部が並んでおり、どこが空いているのか解らない。ぽつぽつ座席の隙間は見えても列の真ん中あたりで着席者の膝をかすりながら前を通るのは気が引ける。受付の人に「大丈夫です。目が慣れるまで、立っています」と言ってお引き取りいただいた。
「ふーっ、途中でもなんとか観られる」呼吸を整え舞台に顔を向ける、と。
「はぁ?何なんだこれは。これは、これは、子供サーカスか?」
舞台の上では十数人の男の子たちが飛んだり跳ねたり、逆立ちしたり、丸くなって転がったりしている。舞踊と言うよりもアクロバットにしか見えない。舞台の四隅から数人がバク転をしながらピョンピョンと舞台中央に集まり、腹を上にして四つ足で客席に向かって一列に並ぶ。その上に別の二人が同じポーズで乗り上がり、タワーを作っていく。さらにその上に一人が二人の腹をまたいで立ち、神童クリシュナが横笛を吹くポーズで立つ。この決めポーズが実に美しい。そしてその組技の周りを別の踊り子が大回転をしながら車輪のように乱舞する。場内は拍手喝采だ。そして、あっと言う間に組技は壊れ子供たちは、体を球のように丸くしてゴロゴロ転がりながら、元の位置に戻っていく。その可愛らしさに場内爆笑。
私は初めて見るこの豪快で楽しい伝統舞踊に圧倒されてしまい、席を探すのも忘れて見入っていた。
それは「ゴティプア」という東インドの伝統舞踊で、6〜15歳くらいの男子が巫女の衣装を着て踊るヒンドゥー教の奉納舞。体が柔らかい年齢しか踊れないため引退が早い。「オデッシー」はこの激しいアクロバットがなくなって後、女性のしなやかさに特化して改良されたものらしい。
『東インド、オリッサ州プーリーから来日。日本では見る機会の少ない貴重なゴティプア舞踊団』とパンフレットには少年たちの写真入りで紹介されていた。へーっ、そうだったんだ。私は改めて1時間の遅れを悔やんだ。
❂
と、いういきさつで私はたちまち「ゴティプア舞踊団」に恋焦がれ、パンフレットを握りしめて、翌年オリッサ州プーリーに向かった(#^.^#) そこはベンガル湾に面した小さな漁師町でヒンドゥー教のジャガンナート寺院と朝陽が昇る美しい海岸で有名だ。
「Good morning, madam.(おはようございます。マダム)」
「Good morning.」
朝食のレストランに行くと、空色のアロハシャツを着たスタッフが、健康そうな褐色の顔に白い歯を浮かべてにこやかに迎えてくれた。彼に従って店内に入ると窓際のとても眺めの良いテーブルに案内してくれた。客は他に誰もおらず、彼のほかに2人のスタッフの姿があった。一人は彼と同じ空色アロハに黒ズボンでやや小太りの青年。もう一人は白いカッターシャツにネクタイ、背が高くてがっしりした体格の中年男だ。彼はアロハに何か注意を与えている様子だった。掃除の仕方でもまずくて叱られているのか、小太りの青年はほうきを持って神妙な顔でうつむいていた。
ホテルはプーリー海岸の高台にあり、椰子の葉を見下ろす向こうには青いベンガル湾が広がっている。波の音がとても近くに聞こえる。
ドドドッ、バッシャーン。ジョボジョボ。ドドドッ、バッシャーン。
鯨でもいるようなとどろき。ここで泳ぐ人は生きて戻れるのかな。
彼はテーブルの上にセットされたコーヒーカップを上向きにし、「Tea or Coffee?」と聞いたので「Coffee, please」と答える。
シルバーのポットからコーヒーがトクトクと注がれていく。コクのある良い香りだ。ミルクをもたっぷり入っている。南インドと同じだ。口に含むと期待通りの苦くて甘いコーヒー。インドの暑さを乗り切るためには甘いだけのチャイでは物足りない。このコーヒーに出会えただけで幸せな朝だ。東インドと南インドは文化的に近いのかな?
「昨日、到着されたのですか?」両手にコーヒーと紅茶のシルバーポットを持ったまま青年が聞いた。彼の後ろではいつの間にかアロハとネクタイのスタッフ2人が立っていた。「ええ、昨日の遅く着いたんです。デリーで一泊してそれから国内線でブバネシュワルまで行ってそこで二泊。昨日の朝はタクシーであちこち観光しながらこちら着いたので、夜になってしまいました」
「プーリーは初めてですか?」ネクタイの男が聞いた。
「はい」
「何処から、いらしたんです?」
「何処だと思します?」
「うーん、チャイナ、コリア…。」
3人は顔を見合わせながら、他にどこがあるかなぁ…。と言った様子。
「ヒントをあげましょう。ウェィブサウンズ(波の音)」
と言いながら私は片手をひらひらせさせて、波の形を描いて見せた。
「ウェイブサウンズ? バッシャーン、バッシャーン?」
「ジョボジョボ…?」
「あっ、解った。ジャパンだ!」とポットを持ったスタッフ。
「大あたりー!」
「わぁ、日本から来たんだ。すごいなぁ」
ポットを持ったまま目をきらきら輝かせてそう言うと、彼の周りでどっと笑い声がおこった。高らかな笑いは広々とした店内に響き、とどろく波の音がしばしかき消された。
❂
「Don`t you eat Indian dishes?(マダムはインドの料理は食べないんですか?)」
トマトソースのパスタとマンゴージュースを部屋のサイドテーブルにセットしながら、アロハのスタッフが聞いた。今朝は朝食の後、プーリーの海岸で散策し、リキシャ(バイクの後部にホロのついた2人掛け座席を備えた三輪車)を拾って、ジャガンナート寺院に行ってみた。ところが、その寺院はヒンドゥー教徒しか入れないらしく、私は仕方なく付近の土産物屋をのぞいて帰ってきた。
ホテルのレストランもどうせ他に客もいないだろうし、わざわざ昼食のためにまた外へ出るのもおっくうなので、ルームサービスを頼んだ。
「I like Indian foods…(インド料理は好きよ)」続けて「どうして?」と聞きそうになって、その質問を飲み込んだ。
そういえば今朝はスクランブルエッグとトーストだった。昼はパスタだ。なるほどね。
「ああ、あなた今朝、レストランにいたのね」私は空色のアロハのシャツしか見ておらず、誰が誰か見分けがつかなかった。
「はい、マダムにコーヒーをサーブしたのは僕です」
「ああ、そうだったの。朝も昼もウエスタンフードだものね。そう思われても仕方ないわね」
私はメニューに書かれている丁寧な料理の説明が、よく解らなかったのだ。メニュー表にはIndian food とWestern foodのパートに分かれていて英語で表記してあった。Indian foodはカニやエビ、魚とシーフードを使った料理であることは解るのだが、調理の内容が想像つかず、面倒なので日本でもおなじみのwestern foodから選んでいたのだ。
「僕はマナスと言います」
「マナス君ね。私はミナミです。よろしく」
「一人なんですか?」
「そうです」
「今朝はどこか観光に行かれましたか?」
「ジャガンナート寺院に行きました」
「ああ、入れなかったでしょう」
「うん。知らなかった。ガイドブックをよく読んだら確かにヒンドゥー教徒しか入れないと書いてあった」
「中には入れないけど、上から見ることはできますよ」
「へぇー、そんなところがあるの?」
「僕はこの後、仕事が終わるんです。今日はお客がいないから帰っていいってチーフから言われて…」マナス君は長い睫毛を伏せて少し寂しそうに言った。よく見るとなかなかの美形だ。しっかりとのびた賢そうな眉が、整った小顔を引き締めている。すらりとした体つき。18か19歳くらいかな。まだ、仕事に馴染んでいない感じ。さらにインド人男性特有の口ひげがない。カッターシャツを着て学校に行っている方が似合いそうだ。
「チーフって、今朝レストランにいたネクタイの人?」
「はい。僕、この後は暇ですし、もしよかったらジャガンナート寺院を見に行きませんか?」
「えっ!! ほんと、いいの? いいの? 連れて行ってくれるの?」
「はい。行きましょう」
マナス君はあどけない少年顔で白い歯を浮かべにっこりとした。
❂
約束の2時、ノックの音でドアを開けると、マナス君がニコニコしながら立っていた。仕事は終わったと言うのになぜかホテルのネーム入りアロハを着ている。
オートリキシャを拾い、二人乗りこんで到着したのは古い鉄筋コンクリートの建物。薄暗い階段を彼について上がっていく。若いマナス君は二段ずつ弾むように上がっていき、その背中を私はふーふー息を切らせて追っかける。3階に着くと大きなドア。天井近くまである。その前には男が一人机に座って待っていた。
「Admission? (入場料がいるの?)」とマナス君に聞くと
「Donation. (寄付だ)」と男が答えた。
寄付? 何の寄付? その説明はない。やっとの思いでこの階段を上がってきた私。快くという気持ちにはなれなかったが、まぁ、いいか。寄付ならこちらの厚意の額でいいのかな、と考えながらバッグから小銭入れを取り出すと、男はすぐに「40ルピーだ」と無愛想に言った。寄付の額まで決まっているのだ。
40ルピーを寄付すると、男は立ち上がって正面の重厚な扉を開けた。さあ、そこには何があるのかと期待して入ったが、そこは天井の低い屋根裏で古くて埃の被った物があちこちに置かれていた。私は拍子抜けしたが、マナス君は大きな窓の方に歩いていき「こっち、こっち」と手を振った。窓に近づく。
「あっ、ジャガンナート寺院だ!」白い塔、ホワイトパコダが目の前でそびえていた。65mあるらしい。その手前にピラミッド型のお堂が3基ある。境内は四角い塀で囲まれている。こんな造りになっていたのか。
窓の下にはバザールが広がり、テント屋根の店が軒を連ねている。神様のお供えや土産物を売る店には多くの参拝者が集まっていた。今朝はここまで来て門前払いされたのだった。いや、門前どころか高さ6mの塀に阻まれ、寺院の存在さえ認められなかった。路上を通るのと上から見下ろすのでは、ずいぶん印象が違うものだ。
バザールの裏側には民家がひしめいていた。古い鉄筋2〜3階の建物。たいていの屋上は手すりがなく、物置のような小屋に洗濯物がぶら下がり植木鉢が並んでいた。 窓から顔を出すと潮風が頬をなぜる。プーリーの町全体を見下ろせるこの景色はなかなか見応えがあった。私は使途不明の寄付のこともすっかり忘れてゴキゲンだ。
「明日は、シーフードを食べに行きませんか?」
「あらステキ。この近くにレストランがあるの?」
「いいえ、マウスです」
「マウス? 」
「はい、ここから25kmほど行ったところです」
「フーン。私は行きたいけど、マナス君、仕事は?」
「大丈夫です」
「ありがとう!」私は小躍りして喜んだ。
「じゃあ、明日は10時に」
❂
ホテルは南国風のコテージで敷地内に10数棟点在していた。専用ゲートがあり各コテージから海岸に出られるようになっている。夜は波が静かで潮騒の砂浜で寝ているように心地よい。レストランやレセプションへは石畳みを渡り、階段を上がった高台のメインホールにあった。
「Good morning, madam」
「Good morning」
朝食を取りにレストランに入る。今日も客は誰もいない。あまり来たくなかったが、宿泊は朝食付きだったので仕方ない。多分、私一人のためにスタッフが待機しているはずだ。アロハの小太り君にコーヒーとベーコンエッグを注文した。しばらくすると、ネクタイが近づいてきた。チーフだ。
「Good morning」
「Good morning」
「プーリーはいかがですか?」
「いい所ですね。海がきれいでのんびりできるわ」
「ありがとうございます。観光は何処へ行かれましたか?」
「グランド通りで買い物をしたわ」
「ジャガンナート寺院は?」
そこを聞かれるとは思ってもいなかった。私は返事に窮した。マナス君に連れて行ってもらった事を話して良いのだろうか。彼はマナス君の上司だ。ホテルのスタッフが客と外で会うというのはマズイのではないか。
「あっ、ああ。行ったけど。あそこはヒンドゥー教徒しか入れないのね。残念だったわ。でも、ここに来る途中でコナラークのスーリヤ寺院に行ってきたから大丈夫。巨大な車輪の寺院に圧倒されたわ」
「スーリヤ寺院は大きい。オリッサ州は歴史ある宗教的聖地ですから、寺院の規模も巡礼者の数も圧倒的です」
「そうね。インド各地から集まる巡礼者が、ここプーリーで一息ついて、また帰っていくのね」
「そうです。プーリーは東インド最大の聖地なのです」チーフはまるで、プーリーが自分の領土のように誇らしげに語った。
「ところで、宿泊者がずいぶん少ない気がするんだけど、今、この辺りはオフシーズンなの?」今は8月の終わりだ。
「いえ、オフでもないのです。実は3年ほど前に大きなサイクロンが来て、家や道路や水道システムやあらゆるものが壊されたのです。ようやく、町が立ち直ったばかり。観光まではまだ、以前のように賑わっていないのです。」
「そうでしたか。お気の毒に」
「オリッサ州は毎年サイクロンに見舞われるのですが、年によっては爆発的に大型のものもあり、その度に大きな被害を受けます。そして立ち直るのにまた何年もかかるのです」
「州の力だけでは限界がありますね」
「はい。でも必ず立ち直ります。オリッサ州はヒンドゥー教と仏教の聖地です。インド各地と世界の仏教信者からdonation(寄付)も集まります。そして何より神の強い御心が注がれています」と胸を張るようにして語った。
「そうね、それは間違いないわね」
ドキドキしながら会話をつないでいるうちに、ベーコンエッグが運ばれてきた。チーフは「ごゆっくり」と言ってテーブルから離れていった。私は、ほっと息をついた。なんとかマナス君との話を避けることが出来た。しかし、どうしたものか。マナス君はまだ子供でホテル業界のタブーが分かっていないに違いない。最悪、チーフにばれて解雇にでもなったら…。やがて私はナイフとフォークを握りしめ、これはまずい。絶対まずい。と確信した。
❂
「えっ、行かないんですか? ミナミさん。どこか具合でも悪いんですか?」
「いえ、どこも悪くないけど」
「じゃあ、何故?」
「そのう、大人の社会ではね。ルールというものがあって。マナス君の厚意はとてもありがたいんだけど。お陰でヒンドゥー教徒しか入れない寺院も見られたし、でもね…」ドアの前で当惑するマナス君。
「はぁ。でもあのう、リキシャは外で待たせているんです」
「えっ、もう呼んであるの?」
❂
「あそこで買っていきましょう」
リキシャはカニ、エビ、魚が描かれSeafoodと書かれた大きな看板の店で止まった。
「何がいいですか、カニとエビと魚」
「何が美味しいかなぁ」
「カニ、お勧めです。僕はカニにします」
「じゃ、私もそれで」
「はい」
結局、私はリキシャに乗ってしまったのだ。マウスへの好奇心とシーフードと、何よりも白いカッターシャツにグレーのズボンという、おめかしで迎えに来てくれたマナス君をがっかりさせたくなかった。
マナス君はリキシャから降りて、店のテイクアウトのカウンターに向かっていった。途中地面から出ていた地引網に片足を取られ、転びそうになったが、ひらりとジャンプして他方の足で着地し、何事もなかったかのように態勢を整えて歩き出した。お見事!! まるで万博記念公園で見た踊り子のような軽やかさだ。
私は心の中で大拍手を贈っていた。
やがて彼は両手にビニール袋を提げてもどってきた。おつりと言って30ルピーを渡した。100ルピー渡したので、70ルピーを払ったということだ。これで2人分なの? 日本円で180円くらいだ。
❂
やがてリキシャは小型ボートが何隻も停泊する桟橋に着いた。海が広がっている。ここは、ベンガル湾なのか? 遊覧船やボートが水面を走っている。こんなところに遊覧船が出ているなんてガイドブックにも書いてない。どれも10人ほどでいっぱいの小舟だった。マナス君に従って、一隻のボートに乗り込むとボートはすぐエンジンを稼働させて走り出した。ボートの屋根は6本の柱に支えられているだけなので、風が自由に吹き抜けていく。磯の香りがする。
「さぁ、ランチにしよう」とマナス君はボートの座席の上でビニール袋をまさぐりだした。出てきたのはお盆のようなアルミの皿。その上に同じような皿がかぶせてある。まるで巨大な二枚貝だ。私にそれを渡すと彼は上の皿を外した。「わぁ」カニのハサミが丸ごと入ったカレーライスだった。ダイナミックだなぁ。驚いている私に「はい」とアルミのスプーンも渡した。この食器は帰りに店に返しに行くのだと言う。そしてもう一つのビニール袋から自分の分を出して、彼も食べ始めた。ライスをかき込み、カニのハサミをひねって割り、足をすする。よほどお腹がすいていたのか、口の周りも頬もカレーでベタベタにして拭うこともせず、「美味いうまい」と夢中で食べている。普通は相手の感想も聞くでしょう? プーリーで食べる初めてのインド料理なのだから。私は彼の少年っぽさを微笑ましく見ていた。余分な気遣いをしなくてよいし気が楽だ。
❂
やがて、ボートは砂洲の美しい島についた。そこでは漁師たちが今朝の漁を終えて、網を広げて繕いをしていた。網に引っかかった小魚が砂地に落ちてピチピチ跳ねている。のどかで明るい島民の生活、思いもよらなかった。
やっぱり、持つべき友は地元民。
海岸沿いを歩いていくと男が砂地に座って、貝を売っていた。
「あの貝は、持って帰って食べるの?」
「いえ、あれは真珠です」
男に値段を聞くと100ルピーだと言う。一つ頼む。彼はいくつか貝を手に取り、重さをはかるように揺らして、これという1つを石でたたいて割った。しかし、その中には真珠は入っていなかった。男は「ちぇ」と言って別の貝をまた選び、割った。貝の中には小さな真珠が身に包まれて出てきた。
「わぁ、とれたての真珠。すごーい! 」
真珠がこんな風に出て来るとは思わなかった。私は手の中で転がしてみたが。
「でも、これどうしよう」
「リングをつけて、指輪にするんですよ」
そう言いながら私の手から真珠をつまむと、私の手をひっくり返して甲を上に向けた。そして薬指の上に載せ「ほら、きれいでしょ」と言ってにっこりとした。二人で一粒の真珠を見つめた。マナス君の顔がとても近い。整った目鼻立ち、長い睫毛の上で前髪が潮風に揺れている。しばし時間が止まったような気がした。
❂
「ありがとう。今日は楽しかった」
「僕も、マウスは久しぶりで、すごく楽しかったです」
「ところで、マナス君、こういうダンス、見たことある?」
ホテルの部屋へ送ってくれた彼に万博記念公園のゴティプア舞踊のチラシを見せた。
「ああ、これはダンス村ですね」
「ダンス村?」
「はい、子供たちがダンスを習っている公立の学校があるんです」
「へーっ、そう公立なんだ」
「この文字は日本語ですか?」
「そうよ、彼らが日本に来て、その時の公演チラシ」
「すごいな、日本に行ったんだ」
「私、そこに入れるのかしら?」
「入るって、ダンスを習うんですか?」
「とんでもない、中を見せてもらえるかということ」
「大丈夫ですよ」
「私はぜひ行きたいの。そのためにここに来たのだから。でもガイドブックには載っていないし、何処にあるのかわからなかったの」
「へーっ、そうだったんですか。じぁ、明日行きましょう」
「あっ、ありがとう。でも、明日は私一人で行くわ。そんなに有名なところなら、きっとリキシャのドライバーも知っているわね」
リキシャのドライバーでは、話せる英語が限られている。ダンス村まで行けても学校で門前払いを受けるかもしれない。うーん、ここまで来て、それはなんとしても避けたい。この辺りの言語はオリヤー語。地元民のマナス君の助けがあれば心強い。しかし、そんな事を期待して彼を連れまわしてはいけないのだ。
「僕もダンススクールの中には入ったことがないんです。見たいなぁ」
マナス君の目がすがりつく。
「僕もミナミさんと一緒に、行きたい」
「だーめ!」
今度は頬を膨らませていている。ころころ変わるマナス君の表情が、気持ちそのままでなんとも可愛かった。
「ごめん私、一人でそこに行きたいの」
❂
夕食をルームサービスで済ませた。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと潮騒の音を聞いていた。
「ミナミさんと一緒にいきたい…」
「リングをつけて指輪にするんです…」
彼の言葉と二人で真珠の指輪を思い描いた海岸の情景とが重なっていた。それから、初めて会ったレストランからたった今、彼と別れた時までを思い返していた。「わぁ、日本から来たんだ。すごい!」「マダムはインドの料理は食べないのですか?」「こっち、こっち」彼の言葉やその時々のきらきらした表情。それはとても甘美な時間だった。
私、恋をしているのかしら?
はるか昔の初恋の甘酸っぱさを思い出す。
ポーチの中から真珠を取り出そうとした。それはティシュに包んである。中には、もう一つティシュに包んだものがあった。開けるとブレスレットが入っていた。グレーの光沢のある巻貝をゴムで連ねたもの。
あれっ、これ何だったっけ?
そうだ、思い出した、初日、ジャガンナート寺院に一人で行った時に土産物屋で買ったのだ。少しゴムが固いなと思いながら、腕にはめてみると、すぐにパチンと音がしてゴムが切れ、貝がはじけ散った。
ワッ! ワワワッ。
私は床に散らばった小さな貝を慌てて拾い集めた。もう、これで全部かな。手の中の貝をティシュに戻そうとした時、ふっと思った。
これで占ってみよう。
一つ摘まんでは「私は恋している」「恋していない」「恋している」…
いい年をして我ながらバカなことをやっているなと思ったが、恋心と狂心は紙一重、いや文字一違だ。
やがて、手の平の貝は残り2個となった。「恋している」「恋していない」ですべての貝がティシュに納まった。
ふいに波の音が大きくなった。潮が寄せては、かえる。
そうか…。なんだかホッとした。けど寂しい気がした。
明後日にはプーリーを離れ、ブバネシュワルに戻るのだ、そしてデリーから日本へ。現実が5日後には待っている。心の熱も引き潮だ。
さよなら、水色の恋。
視線を床に落とすと、ベッドの足元に貝が一つ転がっている。
えつ! 私は慌てて視線をそらし、見なかった事にした。
❂
「Good morning, Madam.」
「Good morning」
朝食のレストラン。今朝も空色アロハの小太君が迎えてくれ、コーヒーを注いでくれた。ナマス君はいないようだ。午後のシフトか? そして、今朝も来てほしくないチーフが宿泊客へのサービスの一環のようにテーブルに近づいている。私はマナス君との事がばれないかドキドキした。彼の危機である。人生が転落するか否かがかかっている。何としても隠し通さなければ。でももし、すでにばれていたら、私が無理やり彼にガイドを頼んだのです。彼に非はないのです。ごめんなさいと謝ってしまおう。
チーフはいつも通りにこやかに朝の挨拶をした。
「プーリーのご滞在、楽しんでおられますか?」
「ありがとうございます。リラックスしています」とチーフの顔を見ずに答えた。
「それは良かったです」
それから、チーフはうつむく私に、恐るべき強烈な一撃をくらわせた。
「湖はどうでしたか? 昨日マナスと一緒だったのでしょう」
「えっ!!!」
「マナスの奴、大喜びで帰ってきましてね。とにかくカニの話ばかりしていました。よほど美味かったんですね。それから、今日はダンス村に行くのでしょう。休みを欲しいと言ってきました。遠出になるので、あなたにエスコートが必要だと言って。ハハハ、許可を出しておきましたよ」
私はチーフの顔を見上げ、言葉を失ってポカンとしてしまった。
「根は真面目なんですが、何にでも興味を持つ盛りで困ります。また、今日もダンスダンスと騒いで帰って来るでしょう」
全てがオープンだったのだ。ダンス村の事まで知っているということは、マナス君は昨日、私の部屋を出た後すぐ、チーフに休みをもらいに行ったということだ。気が抜けた。
❂
「わかりました。ではミナミさん、リキシャの手配を僕がしてもいいですか」
「そうねぇ、それは助かるわ。ダンス村までどのくらい遠いのかしら…? よく解らないけど、とにかく往復お願いしたいわ」
「わかりました」
昨日はこんな会話で終わったのだが、マナス君はちゃっかり、エスコートと称して付いて来るつもりでいたのだ。「今日は暇なので」とケロリとした顔でリキシャに乗り込む彼を思い浮かべ、私は吹き出しそうになった。
❂
「私みたいに一人旅だと、地元の人にガイドしてもらうのが一番助かるわ。彼は親切だし、とても元気。まるで弟ができたみたい」息子とは言いたくない。
「ありがとうございます」
「明日はチェックアウトなので、丁寧にお礼を言わなくてはね」
「ありがとうございます。うれしいです。オリッサ州がまた、サイクロンに襲われた時にはぜひDonation(寄付)をお願いします」
「ええ、そうします。必ず」
そう、話しているうちに朝食が運ばれてきた。いつものように「ごゆっくり」と言いながらチーフはテーブルを離れた。そしてアロハのスタッフもテーブルを離れた頃、チーフは各テーブルのセッティングをチェックしながら戻って来て、こう言った。
「ちなみに、マナスのサラリーは、月550ルピー(約1500円)です」
❂
出発前にフロントを通るとチーフがいたので、マウスはベンガル湾なのか聞いてみた。
「チルカー湖です。ベンガル湾の一か所が入り込んで、砂洲で塞がり、湖になっているのですよ。ちょうど人の口を横から見たような形なので、地元ではマウスと呼ばれているのです」なるほど。
外に出るとロータリーではマナス君がリキシャの中で手を振っている。
「全く、マナス君の奴。調子に乗って」と言いながらもチーフは笑顔で見送ってくれた。口うるさそうな嫌な奴という印象だったが案外できた人物かもしれない。マナス君のサラリーをコッソリ教えてくれたのは、お礼はキャッシュが良いと言いたかったに違いない。考えてみたら、こういう小さな町ではどこかで血縁関係が繋がっているらしい。子供の数が多いし、いとこ同士の結婚も普通だ。チーフの口ぶりには、やんちゃな息子を見守る父親のような大らかさが感じられる。
❂
朝陽の輝くベンガル湾沿いを走るのは爽快だった。リキシャには窓ガラスがないので潮風に髪が舞った。隣に座っているマナス君もゴキゲンで、身を乗り出し「わぁお、わぁーぉ!」と海に向かってライオンのように叫んでいる。全てがオープンであると分かった今、私も心からマナス君とのドライブを楽しんだ。
自分の独りよがりな取り越し苦労でマナス君にいやな思いをさせたかもしれない。ごめんね、マナス君。
リキシャは土産物屋の立ち並ぶストリートを走りぬけ、朝の眩しい海岸沿を後にした。そして観光客はあまり足を踏み入れないだろう、と思われるエリアに入った。ジャガンナート寺院近くの明るく開放的な活気に満ちた町並とは全く異なる雰囲気だ。薄茶色の土壁と椰子の葉屋根が連なっている。壁には神話の情景らしきものが朱色の線で描かれている。高い椰子の木が家々を見下ろし、道のあちこちにある祠には神が祀ってあった。信仰と生活が一つになっている暮らしぶりが伝わって来る。
まさか、ダンス村ってここじゃないわよね。
さっさと通り抜けられるものと思っていたが、リキシャは寺院のような造りの立派な建物の前で止まった。
ええっ、ここに入るの?
リキシャを降りマナス君と門をくぐる。中に入ると私たちを見つけた男が一人こっちに向かってくる。
「Excuse me, I would like to see this school manager or principal?(すみません、ここの管理者か校長にお会いできませんか?)」
と尋ねるが、男はポヤンとして返事がない。どうやら言葉が通じてないようだ。
マナス君が私の知らない言語で男に話しかけた。これがオリヤー語か。
「何の用かって、この人聞いてますよ」とマナス君。
私はカバンに用意してきたゴティプア舞踊のチラシを見せた。
男はそれを見て目を丸くし
「アジァ、スーリヤ、サミー」と言った。どうやらチラシに載っている子供たちの名前のようだ。
「この子たちに会いに日本から来た、と言って」
私はマナス君にそう言うと、彼は通訳してくれた。
3人で立ち話をしているところへ、風呂上がりのおじさんのような恰好の人が奥の部屋から出てきた。上半身はだかで突き出た腹、腰にバスタオルのような布を巻いている。
男がチラシをおじさんに見せ、事情を知ったその人は日本から追っかけてきた私に大感激してくれた。そして申し訳なさそうに話した。
「I am sorry to say…。(あいにく、彼らは今、海外公演に行っていてここにはいないのです。)」
えーっ! そう…そうよね。インドに行けば会えると思っていたなんて、愚かよね。彼らは日本に来ていたのだもの、またよその国に公演に行くぐらいのこと、どうして考えつかなかったのだろう。
がっかりする私。よほど落ち込んで見えたのだろう。マナス君が「Are you O.K? (大丈夫ですか?)」と声をかけた。ぼうぜんと立ち尽くす私に、
「せっかくなので、彼らのアルバムでも見て行ってください」とおじさんは部屋に入り、アルバムを持って戻ってきた。
「これが、インドネシア。こっちがタイ。それから…」現地での集合写真。アジアを中心に活躍しているようだ。
「今は別のチームが練習をしています。せっかく日本からいらしたのですから、見て行きませんか」
「わぁ、ぜひ見たいです。お願いします」
どうやら、風呂上がりのおじさんは学校長らしい。
二人の男に従って門の外に出、別棟の民家のような平屋に入った。土壁に椰子の葉屋根が覆っている。中には3人の少年と指導者らしい男が練習中だったが私たちを見ると止まった。寺院から来た男が指導者に何か言い、彼はうなずいた。私たちにはイスが用意され、少年たちは並んでこちらに合掌。すぐにカセットの音楽に合わせて踊りだした。踊りというより、アクロバット、組技、ポーズの連続を披露した。
なんて体が柔らかいのだろう。そしてこの敏捷さ。少年にしかできない。マナス君も目を丸くして見入っていた。
「すごーい!」
最後は童神クリシュナが横笛を吹く決めポーズで締めくくられた。私とマナス君は拍手を贈り、少年たちは丁寧にお辞儀と合掌をした。
「how was their dance?(いかがでしたか)」腰布を巻いた学校長が聞いた。
「Wonderful. Beautiful. Exiting. Cool! Thank you very much! Thank you!」
私は感激して、ありったけの知っている単語を並べて称賛と感謝を述べた。
「喜んでいただけて良かったです」
「はい、日本から来たかいがありました。舞台での公演もすばらしかったですが、こうして近くで見せていただくと、より一層のすばらしさに感激致します」
「そうですか。それは良かった。ところで…」
「はぁ、」
「ところで、この少年たちがこれからも練習を続けられるように、Donationをしていただけると、彼らの励みになると思います。わが校としてもとても助かりますし」
「へっ?」
「一人に100ルピーほど」
あっ、なるほど。ここは私も気を利かるべきだった。私は快く財布を開けた。少年たちは一人ひとり私の前に歩み寄り、100ルピー札を受け取ると丁寧に腰を曲げて合掌した。この寄付はとても有意義に思えた。インドの伝統文化に貢献していると思うと、誇らしい気分になった。
リキシャはダンス村を後にし、プーリーの町へと向かっている。太陽は西の空に傾きかけていた。
「ありがとう、マナス君。毎日とても楽しかった。お陰でダンス村にも行けたし」
「僕こそ、厚かましく付いていっちゃって…」
「これ、感謝の気持ち」と500ルピーを財布から出した。
「えっ! あっ、こんなに。ありがとうございます。でも、これは、家に行ってマヤに渡してもらえませんか」
「マヤって誰?」
「妻です」
「今、何て言った?」
「妻です。ここ数日、仕事を休んで遊びまわっているって、怒っているんです。
もし、ミナミさんがこのお金を妻に渡してくれたら、マヤの機嫌も直るでしょ」
「そ、そうだったの。お子さんは?」
「はい。一人います。去年生まれたばかりです」
「奥さんはいくつ?」
「18です」
ハートブレイク。私の水色の恋は、今やベンガル湾の波間を漂い、行き場を失っている。
話を聞くと、二人はいとこ同士で、子供の頃から双方の両親と共に一つ屋根に住んでいた。そして1年前、結婚式の当日に自分の妻となる人がマヤだとわかってびっくり。今は子どもと母親4人で暮らしていると話した。
「ここです」リキシャは2階建ての立派な門構えの家の前で止まった。鉄格子を開けて入ると、敷石の突き当り3段の階段を上ったところが玄関ドアだった。見上げると建物の屋上は手すりがなく、花の鉢植えが並び、シーツのような大きな布が竿に掛かっていた。ジャガンナート寺院を見た時に並んでいた家とおなじ造りだ。彼はなかなかの名家ご子息だったのか?
私が階段を上がろうとすると「ミナミさん、こっち、こっち」と手を振った。建物に沿って裏手に回り、彼は木戸を開けた。
「あそこは家主さんしか入れないんです。僕たち借家人の入り口はここです」といって木戸をくぐって入ると、水のない井戸に落ちたような狭い空間。しかも暗い。コンクリートの壁にまっすぐ鉄の梯子がついている。
「えっ、これを昇って行くの?」
つまり彼らは屋上の小さな小屋に住んでいるのだ。そしてこの梯子は非常用に違いない。マナス君は梯子に手をかけると空中サーカスのように軽々と上がって行った。
「ミナミさーん。気を付けて上がってきてくださーい」
上の方で声がするが、彼の姿は見えない。私は鉄の梯子に手をかけ片足を上げた。こんな梯子は昇ったことがない。まるでアクロバットだ。
そう、アクロバット。
私は、クスッと笑えてきた。そう、私はゴティプア舞踊のアクロバットに魅せられてここに来たのだ。あの踊りがあまりにも面白くて。そしてマナス君に出会い、踊り子と彼を重ね合わせ、勝手に恋に浸って大失恋。結局、ここオリッサで踊っていたのは私だ。私一人が踊っていたのだ。何だか可笑しい。自分が笑える。そして、極めつけはDonationのためにこの途方もない高さの梯子を昇っている。
私は悟りを得た。ここベンガルでは、踊るのは自由だが寄付にはエネルギーがいる。
再び、マナス君の声が降って来る。
「ミナミさーん、大丈夫ですかー」
「大丈夫よー」
「マヤがチャイを作ってますぅ。ゆっくり、気を付けてきてくださーい」
「はーい! 頑張ってるわー」
私は最後の決めポーズのために、さらに上の梯子に手を伸ばした。
了
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