名画の村 マドラス

「No, this is different house.(違います。こんな家ではありませんでした)」

「But your address is here.(お客さんの言う住所はこの辺りなんだがね…。)」

「I think … (こんなコンクリートの立派な家ではなかったです。屋根が椰子の葉で長屋になっていました。そういう家が並んでいて。細い路地の片側が高い塀で…。あっ、塀の所々に給水タンクがあって、水が配給されているエリアです)」

「水が配給? お客さん、それいつ頃の話かね?」

「たぶん、3年くらい前…」

「ああ、そんなに前か。この辺りはずいぶん変わったんだよ」

うんざりした様子のタクシードライバーは細い路地をゆっくり右折した。ついさっきは行き止まりでバックしたばかりだ。もう一時間あまりこの辺りをうろうろしている。私は窓から顔を出して記憶を辿ってみる。やっぱり、この住所は偽物だったのだ。私はハリーからの手紙に視線を落とした。

「お客さん、人探しはこの辺で切り上げてもらえませんかね。そろそろマハバリに向かわないと、僕も夕方にはこっちに帰って来ないといけないんでね」

「そうですね、運転手さんはマドラスに戻らなければならないですよね。すみません。じゃ、マハバリに向かってください」

バルコニーを備えた一戸建てが並ぶ裕福な住宅地を走り抜けた。私は後部座席の背にもたれ、ため息をついた。ハリーは騙されていたんだ。いったい何処にいるのだろう。これからマハーバリプラムに行って3泊する。帰りはまたマドラスに戻って空港に行くのでハリーの家を探すチャンスはもう一度ある。無事でいてほしいと祈った。

     

              ❂

三年前の南インドマドラス。

昨夜遅く国際空港に着き、日本から予約していたホテルに入った。チェックイン後、ぐっすり眠った翌朝。

窓の外、小鳥のさえずりで目が覚めた。カーテン越しに朝陽が差し込んでいる。起き上がって3階の窓から見下ろすと輝く樹木がまぶしい。そして、その向こうには朝陽にきらめく海が広がっていた。

時計は9時半過ぎ、早くレストランに行かなければ。朝食は10時半には終わってしまうのだ。

バイキング形式の朝食をしっかり食べて、観光に出ようと建物の外に出た。波の音と潮風で海がすぐ近だとわかる。ベンガル湾だ。マリーナビーチという海岸が有名で、夕暮れになると仕事を終え、憩いのひと時を過ごす地元民や観光客で賑あう。

ガイドブックを広げると、この辺りは南インド、マドラスと書いてあるがその横に小さく(チェンナイ)とも記してある。インドは200年近くイギリスの植民地だったので、主要都市は植民統治下時代の名称がそのまま残っている所がある。ここマドラスも正式名称チェンナイに改称しようという動きはあるが定着までは時間がかかりそうだ。

緑の芝や樹木の生い茂る広い敷地を歩いてゲートに向かっていた。そこへ白木綿の上下を着た小柄な男が近づいてきた。

「Come,come.(来い、来い)」と言う。

「What? Where? (へっ? どこへ?)」

「俺が連れて行く」

「連れて行くって? どこへ?」

「あんたの行こうとしている所だ。俺は解っている」

気味の悪い男だな、と立ち止まると警備員が飛んできて、男に激しい口調で「出ていけ!」と怒鳴った。白木綿の男はひるむ様子もなく背を向けて、悠然とゲートから出て行った。

ゲートの外では黄色いオートリキシャが5~6台並んでいるのが見える。あのリキシャのバリケードを突破するのは難関だな。すでにドライバーたちが私に飛びかかりそうな勢いで待ち構えている。ドライバーの客引き争奪戦が始まりそう。

「面倒くさいな、ホテルへ引き返そうかな」とゲート近くでためらっていると、

「だめだ、だめだ。俺の客だ」と言いながら一人の男が私とドライバーたちの間に立ちはだかった。

「話はもうついてるんだ。見てただろう」

「えっ!」

さっきの白木綿の男だ。オートリキシャのドライバーだったのか。追い出されると承知でゲートに入り、私に話しかけたのは、すでにこの客は俺の客だと他のドライバーたちから優先権を得るためだったのだ。なかなか、やり手のようだ。ドライバーたちもその様子を見ていたので、彼の一言で一斉に手を引いた。後は白木綿と私との一騎打ちだ。

私は素知らぬ顔をして歩き始めた。しかし行き先も決まっていないので、とりあえずリキシャのバリケードから逃れたというだけだ。白木綿は私を追っかけて来て、並んで歩きだした。

「今日は寺院に行こう。それからショッピングだ」

「ううん、私はそんなものは興味がないわ」

「ここに来て、興味がないって? そんなことはないだろう。じゃあ、ビーチはどうだ。きれいだぞぅ。近くに博物館もある」

彼はどこまでも付いて来る。しつこいな。私は道に迷いそうだ。

「わたしね、こういうのを見たいのよ」

一枚の絵のチラシをカバンから出して見せた。それは、私の尊敬する日本画家秋野不矩さんの代表作の一つ『赤いサリーの女』サリーを着た女性が地面にその家の家紋を描いている。南インドの習慣で女性の朝の日課なのだそうだ。

「これを見に来たのか?」

「そうよ」

「これは朝早く女たちが道に描くが、今頃はもう踏まれて消えてるよ」

「朝早くでないと、描いけないものなの?」

「そういう訳ではないが…。よし、俺にまかせとけ、今から女房に描かせる」

「本当?」

「まかせとけって。さぁ、乗った乗った」

話は決った。彼はゲートに引き返しすぐにリキシャを運転して戻ってきた。私はようやくリキシャーに乗ると、彼は運転席から振り返り嬉しそう「ウェルカム、ウェルカム」と繰り返した。そして、一人で来たのか?何日滞在する?インドは初めてか?等々矢継ぎ早に聞いてきた。単語を連ねただけのぶっきらぼうな英語だったが、イキのいい下町江戸っ子みたいで感じは悪くない。30歳前後か。名前はハリーといった。

                                                              ❂  

ハリーのリキシャが止まった所は下町のさらに下という感じの民家の集まる村だった。ハリーがエンジンを止め運転席から出ると、裸足の子供たちが何処からともなく集まってきた。ハリーはポケットからアメを出し、子供たちは彼の手の平から一つずつつまんでにっこりした。

ハリーは大きな屋根が椰子の葉でできている長屋風の家に向かっていった。青いペンキ塗りの戸口には妊婦が一人、椅子に座っていた。

「俺のワイフだ。マヌーシャってんだ」

妻は私の顔を見て、にっこりとした。目鼻立ちの整ったきれいな人だった。妊婦のせいかとても貫禄がある。インドの女性は男性の影に寄り添っている感があったが、彼女はどこか違う。ハリーが小柄なためか彼女の方が大きく見えた。

ハリーの家は椰子の葉の屋根と赤レンガの壁でできていた。椰子の葉と木の皮を縄にしてよくもこんな屋根がつくられたものだと感心した。この辺りの住まいは一つの屋根に長屋で何件かの世帯になっているようだった。窓はガラスがなく、窓枠にぶら下がった板をつっかえ棒で支えていた。彼に従って青いペンキ塗りの木戸をくぐると窓の下は流し台とコンロ。そして2畳ほどのスペースがあり、流しと向かい合うようにして押し入れがあった。襖はない。それは押し入れではなく作り付けの二段ベッドだったのかもしれない。

レンガを積み上げセメントで接着した壁には、A4サイズ程のカラーのチラシが貼ってあった。それにはサリーを着た太った女が笑っており、この辺りの言語、タミル語で何か書かれている。選挙運動のチラシのようだった。

勧められてプラスチックの椅子に腰かける。私が中に入ると外にいた子供たちがぞろぞろついてきた。そして大人も代わる代わる入っては出て行った。その度にハリーは「これは、俺の叔母だ、こっちは妻の妹の子。それから…」と一人ひとり紹介した。「ハロー」と言って挨拶を交わしたが、それに続く彼らの言葉は解らなかった。この州の言語はタミル語。とても早口で巻き舌を使ってしゃべりたてる。ただでさえ狭い室内にいろんな人たちが、嬉しそうに恥ずかしそうに顔を出しては、早口言葉を唱えて出て行く。誰が誰だか紹介されても区別がつかなかったが、村人の純朴な人柄が伝わって来る。

やがて、少年がコーラ瓶を持って入ってきた。ハリーはそれを受け取ると、彼に何か言った。少年はまた慌てて飛び出して行った。再び戻ってくるとハリーに栓抜きを手渡した。ハリーは私の前で左手にコーラ瓶、右手に栓抜きを見せた。そして目の前で栓を抜き、泡の噴き出るコーラ瓶を私に差し出した。

あっ、彼はプロだ。

外国人が食べ物を警戒することを承知なのだ。だから栓の開いたコーラでなく、わざわざ目の前で開けて見せたのだ。面白いリキシャに出会えたなと愉快な気分になった。

やがて、外がなにやらにぎやかになってきた。窓の外では大勢の女のぞろぞろ歩きと話し声が聞こえ、赤や黄色のサリーがひらひらと動いていた。私が外を気になっている様子を見てハリーが「おっ、始まるぞ」と言った。

私たちが外に出ると、十人ほどの女たちが木戸の外に集まっており、かがんで地面に白い点を打っていた。やがて点と点を結んで幾何的な絵を描き始めた。そして出来上がった模様に黄色やピンクの色粉をかけた。大きな色模様が路地一杯に広がっていく。

「わぁ、すごーい!」こんな大きな家紋が見られるとは思わなかった。

「大勢集まって、こんなに素晴らしいのを描いてくれて! ありがとう!」

「いいってことよ。それに女たちを集めたのは俺じゃない、女房だ」

私は椅子に大きな腹を抱えてふんぞり返っている彼の妻に「サンキュー」と言って両手を合わせた。彼女はにっこりして右を向いて顎を上げた。右を見ると、右側の並びの家々の地面に家紋が描かれていた。そして左側の家にも。その路地にはすでにずらりと白い線で家紋が描かれていたのだ。大感激した私は走って行って一軒一軒の家紋を見て回った。ハリーの家の大きな家紋に比べて小ぶりだったが、それぞれが大きさ形、特徴が異なっており面白かった。まるで路地が細長いキャンバスだ。家紋の大きさと妻の呼びかけでこれだけのイベントを行えたことから、ハリー一家のこの地域の中での力の大きさを感じさせた。

ハリーにこの絵は何と呼ばれているのかと聞くと、

「えーっと、ハピネス(幸せ)だ」と答えた。

多分、タミル語の呼び名があるのだろうが、彼は私にもわかるように英語に言い換えたようだ。毎朝、一家の主婦が家族の幸せを祈って描く家紋。素晴らしい伝統だなと思った。

                ❂

翌朝、ホテルのゲートを出る時、もう一人欧米系らしい青年がいた。私が彼より先に歩いていた。ハリーがリキシャの前で立っており私は「グッドモーニング」と言って乗り込んだ。リキシャは他に4~5台止まっていたが誰も私に声をかけなかった。すでに『ハリーの貸し切り客』と解っているのだ。彼らの視線は私の後ろから来る青年に集まっていた。同業者のルールが徹底しているようだ。

今日はマハーバリプラムに行くことになっていた。まず彼は家に連れて行った。妻がにこにこしながら家の前の椅子で待っていた。私を見ると新聞紙にくるんだジャスミンの花飾りを見せた。今朝、市場に行った時妻が買ったとハリーが言った。それは30センチほどの白いロープ状で良い香りがした。彼女は英語が話せないらしく、私に後ろを向けと手振りし、私の後ろ髪にピンでジャスミンを付けてくれた。

今日は妻ともう一人10歳くらいの女の子もリキシャに乗り込んだ。ハリーの親戚かと聞くと「いや、近所の子だ。ナリニーと言うんだ。妻は妊婦なので何かの時に役に立つ」と言った。

ここからマハバリまでは60kmはある。妊婦が乗って大丈夫かと気になったが「大丈夫だ」とハリーは答えた。

リキシャは村を抜け、漁場を後にし、海岸沿いを走る。コンクリートの建物や椰子並木の切れ目からキラキラと輝く青い海がのぞく。良い眺めだ。リキシャの窓にはガラスがないので風が心地よく通り抜けていく。

昨日ハリーがホテルまで送ってくれた時、リキシャ代を払おうとしたが受け取らなかった。「いいんだ、いいんだ。最終日にまとめてくれ」と言った。

私は滞在4日と話していた。デリーやムンバイのような都会と違い、田舎ではこういう『おもてなしリキシャ』がまだいるんだなぁと思った。彼はなかなかのやり手ようで手際がよい。ホテルの旅行会社に頼むルートが決まった観光よりも家族ぐるみの方がもちろん楽しい。

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突き当りが踏切という道で、リキシャは止まった。横の空き地に小さな小屋があり、その前に警官が一人椅子に座っていた。彼は立ち上がり私たちの方に近づいてくる。

窓越しにハリーに何か言うと彼は運転席から外に出た。何の話なのかは解らなかったが、ハリーの顔つきから見て、何かトラブルになっているようだ。話はなかなか終わらない。やがて妻もドアを開け、大きなお腹を押し出すようにして外に出た。どうなるのだろうと固唾を飲んで見守っていると、彼女はいきなり警官の座っていた椅子を蹴り飛ばした。

えっ! こんな妊婦は見たことがない。

プラスチックの椅子は倒れ地面に転がった。そして彼女は大きな怒鳴声を上げ、腕を組んで斜に構えた。何を言っているのか解らなかったが、もの凄い迫力だ。ハリーは後ろ手で妻を制して懸命に警官に訴えかけている。やがて二人は固い表情で戻ってきた。

「どうしたの?」と聞く。

「ユニフォームだ。ドライバーのユニフォームを着てないから怒られた。マドラスなら問題ないんだが、今よそのエリアに入っているから規則がきびしいんだ」

そう言いながら憮然とした様子で運転を始めた。リキシャの中は沈黙が続いた。

私は、この妻には初めて会った時から何か違うなと感じていた。それは妊婦ゆえの貫禄だろうと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。一体この夫婦は何者なのだろう?

 

              ❂

マハーバリプラムはベンガル湾に面した観光地。青い海と椰子の木を背景に立つ2基の『海岸寺院』。もとは7基あったが波にさらわれ,現在は2基だけが残っているらしい。いかにも南国らしい話だ。

南方型ヒンドゥー建築の原点『パンチャラタ』は5つの建造物という意味で、5つ全てが一つの花崗岩でできている。もとは地中から5つの建造物がポコポコ出ていたが掘り出してみたら一つの大きな岩だったということだ。これらは世界遺産に登録されている。

パンチャラタの外にある『アルジュナの苦行』はガンジス河が天界から降下した伝説を浮彫で描いた巨大なレリーフ。

何よりも私が圧倒されたのは『クリシュナのバターボール』だ。それはまるで、宇宙から落ちてきた巨大な隕石。小高い丘の斜面にあり、今にも転がり落ちそうな中途半端な位置にあるのだが、どういう訳か滑り落ちない。

過去の王朝が何十頭もの象で斜面から落とそうと試みたが落ちなかった。それ以降、神の聖なる力に支えられているものとされ、その丸い形から神話の童心クリシュナのバターボールとあがめられ、親しまれてきた。

ところが植民地時代になるとイギリス人たちが再び、落下を試みた。しかしやはり斜面から滑り落ちなかった。ついには石を半分に切ってしまったがそれでも留まったままだ。インド人からすれば神聖なる形で鎮座しているものをイギリス人たちは面白半分で引っ張りおろし、はては割ってしまったということになる。その時代のインドの人たちの悲しみや恐れははかりしれない。

 

              ❂

マハバリプラムではハリー一家が昼ごはんを奢ってくれたので、私はマドラスについてから夕食奢ることにした。どこか良いレストランはないかと聞くと、良い所があると言うのでそこに行くことにした。ハリーはナリニーの家族をよんでも良いかと聞くので、O.Kだと答えた。

やがてマドラスに着き、椰子の屋根の路地に入るとハリーは通りすがりの少年を窓越しで呼び止め何か話していた。地域のネットワークの良いエリアだ。

レストランは水色の壁に黒いテーブル6つ、インドらしい派手な装飾もなく大衆食堂という感じの店だった。ハリー一家と夕食をとっていると、私たちの後から4人ほど入って来て隣のテーブルに座った。ナリニーはそちらに席を移ったので、彼女の家族だとわかった。「これがナリニーの母親で、隣が母親の妹だ。それから…」ハリーはナリニーの家族を一人ひとり紹介した。大人の女3人に1人の少年。皆、にこにこしながら合掌していた。よく考えてみたらこの辺りは大人の男が少ないな。ハリーに尋ねると

「亭主はみんな、仕事に行ってるんだ。」

「へぇ、どんな所に勤めているの?」

「いろいろだが。海外の建築現場とか、石油の採掘場とか…」

なるほど、出稼ぎに行っているのだ。インドの男たちはシンガポールやイラン、アラブ諸国に働きに出ているのは聞いていたが、一家の稼ぎ手を待つ家族の事は考えてもみなかった。男たちは一定期間帰ってこない。だからこの辺りは女性ばかりなのだ。

私たちは食事を終え、チャイを飲んでいるところへ老いた女が3人入ってきて店内をきょろきょろ見回していた。ハリーと目が合うニッと笑ってこちらに寄ってきて座り、料理を注文した。女の子の家族全員が来るとは思わなかった。7人もいたのか。

結局私は11人分の食事代を払う羽目になった。それでも貨幣価値が10分の1なので日本円で1000円程度だった。まぁ、一人ひとりから両手を合わせてサンキュー、サンキューと感謝され、たくさんの笑顔に囲まれた食事。良しとしよう。

    

             ❂

翌日はカンチープラムに行くことになっていた。マドラスから80Km近くある。さすがにハリーもリキシャーでは無理なので車を手配していた。

その日はもう一人女の子が増えていた。15歳くらいの利発そうな子だった。

カンチープラムは、ワラダラージャ寺院とエーカンバレシュワラ寺院が有名。どちらもドラヴィダ建築の特徴巨大なゴープラム(塔門)を構えている。圧巻の高さの上、表面にはヒンドゥー教の神々がびっしり浮彫されている。

また、カンチープラムシルクは南インド舞踊バラタナティアムの舞踊衣装の制作現場でも有名。サリーをまとった女が描かれている大きな看板の店に入った。店員は私を見るとにこやかな顔で寄って来て、カンチープラムサリーがいかに手の込んだ精巧なシルクで作られているかを説明し、いくつかサリーを広げて見せてくれた。妻と娘たちが装飾用にぶら下がっているサリー生地を見上げていたが、店員は彼女たちの相手をしようとはしなかった。今着ている化繊のものから見て、高価な絹のサリーを買う客ではないと判断したようだ。

私は欲しい物はなかったのでハリーと椅子に座っていた。

「女は何処へ行ってもサリー、サリー、サリーだな」

「うふふ、そうねぇ。私もサリーはきれいだし、好きだわ」

「ほう、そうか」

「じゃあ、ハリーは何が好きなの? 趣味はなあに?」

「俺か? 趣味? そうだなぁ。俺の趣味は、そうだなぁ、女房だ」

「へぇー。それは、それは素晴らしい趣味でした」私は笑い転げた。

妻はいきなり笑い出した私を見て、どうしたのかという目つきをハリーに向けた。ハリーは妻の耳元で何かささやくと、妻も笑いを噴出した。

「じゃあー。ハリーの夢は?」

「夢か。おれの夢はでっかいぞ。車のドライバーだ」

「わぁ、ステキね」

「リキシャじゃ、あんまり遠くには行けねぇからな。車さえあればもっと稼げる。いっぱい稼いでな自分の家を持つんだ」

「そうね。ステキな趣味もあるし、きっと叶うわ」

「あたりめぇよ。あと三月もすれば子供も生まれるし。叶わねぇもんなんてねぇ。そうなりゃ、サリーだって飽きるほど買ってやらぁ」

ハリーはそう話し、心から楽しそうに「ワハハハ!」と高笑いした。彼は幸せなのだ。これまでインドの人たちから夢や望みをよく聞いた。そして話の最後はいつもお金がない、で締めくくられた。彼らも私も虚しいため息だけが残った。だが今、彼は現実味のある夢として語っている。インドの経済成長の恩恵は確実に庶民に浸透しているのだ。彼の自信に満ちた夢は私をも幸せな気分にした。

            ❂

その日の夕食も昨夜と同じレストランに向かった。店の入り口両側に男女子供がガヤガヤとしゃべりながら大勢集まっている。今日は何かイベントでもあるのかな? 私とハリー、妻、二人の少女の5人が店に入ると何と、その大勢がぞろぞろ付いて入ってきた。15〜16人はいる。店はすでに貸し切り状態だ。私とハリー夫婦が料理を注文すると、各テーブルでもガヤガヤとにぎやかに注文が始まった。

これは、いったい…?

やがて料理が運ばれ、料理と言ってもみんなカレーで、右手で器用に食べるのでとても速い。そして各テーブルの請求書は、なんと私のところに回ってきた。

えっ、これ私のおごりなの!? 

私は背筋が凍り付いた。

そうか、今日は少女二人分の家族なのだ。まだ、これから後も家族がぞくぞくと入って来るのかと思うと、私はカレーが喉を通らなくなってしまった。そして、私がまだ食べている最中に、各テーブルから立ち上がる人たちが出てきた。それを見て、私の正面に座っていた妻がいきなり彼らに怒鳴り声をあげた。鬼のように怖い顔でにらみつける妻を見て彼らは再び椅子に座った。どうやら妻から「おとなしく座ってろ!」と一喝されたようだ。私はゆっくり食事をしていられない状況になり、冷や汗をかきながら無理やりカレーを喉に押し込んだ。

その日のカレーはとても辛かった。


そして、次の朝。今日がマドラス最終日。ホテルをチェックアウトし、キャリーケースを持ってハリーのリキシャに乗り込んだ。

午前中市内の寺院を見て回り、昼前にハリーの家に着いた。妻はこの日も家の前で座って待っていた。新聞紙には白いジャスミンと今日は橙や黄色の花を用意している。美しいコンビネーションだ。戸口で髪にそれを付けてもらい、家の中に入ると女子供10人近くいた。

美味しそうな匂いがする。みんなで昼食会かと思っていたら、めいめい鍋やフライパンで持ち寄った料理を一つの皿によそっていく。私の分だけを作っているのだ。やがて少年がひとり竹の皮に包まれた物を「熱い、熱い」と言いながら届けに来た。それは蒸し上がったばかりのおこわご飯だった。

「女たちがあんたにごちそうするんだとさ、食べてやってくれ」とハリーが言った。

「わぁ、ありがとう。インドの家庭料理って初めて」と言いながらも2畳ほどのスペースしかない部屋で多くの人たちが見守る中、一人椅子に座って食べるのは気が引けた。しばらく膝の上に置いたアルミの皿をぼーっと見ていると「ほれ」と妻からスプーンを差し出された。

こうなると、さすがに食べないわけにはいかなかった。ベジタリアンの食事らしく野菜のソテーや豆粉の揚げ物だった。緊張しながらスプーンを口に運んだ。周りシーンと静まり、集まる視線。

「グッドだ」と親指を上げて言った。皆が一斉に「わーっ!」と歓声を上げた。最後の晩餐を用意してくれたのだった。その気持ちが嬉しかった。ひとしきり騒ぎながら女たちが去っていくと、ハリーの妻がギフトだと言ってサリーをくれた。緑に金糸が刺繍されたナイロンの安物ものだが、多分彼女の貴重な一着に違いなかった。これを着て今から写真館に行って記念写真を撮ってもらおうとハリーが言った。これがハリー家の最後のおもてなしのようだった。

妻は私にサリーを着せてくれた。今日のジャスミンに橙や黄色の花を追加したわけが分かった。緑のサリーに房状に揺れる花がよく映えた。

着替えている間、外で待っていたハリーは妻の合図で部屋に入り、私のサリーを見て「おおっ!インドの女みたいだな」と大げさに驚いて見せた。

  

            ❂

写真館で撮影後、20分ほどで出来上がると言うので、暫く待合室で過ごした。

「ありがとう。日本に戻ったら必ず手紙を書くわ」

「おぅ、ありがとうよ」

「住所は?」

「住所なぁ。俺、字が書けねえんだ。読めねえし」

「そう、それじゃあ無理なのね」

「でもな、ちょっと先に学のある人が住んでるんだ。そいつに頼んで住所書いてもらってくるよ。教育のある立派なお人でな、英語もフランス語もできるんだ。あんたから届いた手紙も読んでもらって、返事も書いてもらうから心配いらねぇ」

「ふうん、親切な人がいるのね。じゃぁ、ハリーの家には海外からお手紙がたくさん来るの?」

「いや、始めの内は来るんだが、やがて来なくなる」

「そう、どうしてかしら?」

「わからねぇ」

しばくするとハリーは「ちょっと待ってくれ」と言い、外に出て、通りを歩く少年に声をかけた。写真が現像されるのとほぼ同時に少年が紙を届けに来た。

ハリーは「これだ、これだ」と言いながら私に手渡した。住所が書いてある。学のある人に書いてもらったようだ。地域のネットワーク力につくづく感心する。

私はハリーにお礼として4000ルピーを渡した。ホテルのスタッフのサラリーが月2000ルピーの時代、車のチャーター代を差し引いても相当に残るはずだ。

それとは別に妻には生まれて来る子供の出産祝いにと2000ルピーを渡した。

1000ルピーずつ大きなホチキスで閉じられた札束6個を手にして、二人は大喜びだった。妻はよほど嬉しかったらしく、「キャッハハハー」と悲鳴のような歓声を空港に着くまで続けた。

「子供を見に来てくれ」

「もちろん、行くわ。元気な子を産んでね」

「こいつの腹から出て来るんだ、しょぼくれたガキのはずがねぇ」

私はケラケラと笑い、3人で大笑いした。名残惜しく手を振りながら別れ、私はひとり空港ゲートに入って行った。

                                                    ❂   

帰国後すぐに手紙を送った。マドラス滞在中はお陰で楽しかったとお礼。そして一緒に撮った写真。

それからふた月ほどして返事が来た。子供が生まれた。女の子でアシガと名付けた。元気でお乳を良く飲むと書いてあり、写真が添えられていた。すぐにお祝いに小さなスプーンを贈った。離乳食に役立つだろう。

返事を受け取ったのは、それから3週間ほどだった。その手紙にはアシガが病気になった。治療のために大金が必要となった。お金を送ってほしい。という内容だった。

それは大変だな、初めての子供なのに。手元に残っているインドルピーはいくらあったかなと思った。そして続きを読んだ後、これはハリーの手紙ではないと直感した。お金はEMSで送れと書いてある。EMSとは国際速達便のことだ。普通郵便ではお金は送れない。度々郵便物が紛失するインドではなおさらだ。EMSは配達記録が付いて回るので、よほどのことがない限り届けられる。重量も表示しているので封筒の端を破って中身を抜き取られることもない。

ハリーにここまでの知恵が回るとは思えなかった。私はしばらく返事を出すのをためらった。そしてハリーとの会話を思い出した。

――ハリーの家には、海外からお手紙がたくさん来るの?

――いや、始めの内は来るんだが、やがて来なくなる。

そうか、この学のある人物がハリーの代筆をしながらお金を搾取していたのだ。おそらく、この住所もハリーの家ではなく代筆者のものだろう。大した学識者だ。高い教育を受けた人なのかもしれないが、人間性を比べるならハリーたちの方がずっと上だ。自分たちのできることを精一杯して生活を良くしようと努力している。少しは彼らを見習え。

ハリーの家には電話もなく通信手段は他になかった。私は返事を出すのをあきらめた。

それから1年後、私はマドラスに行く旅行の手配をしていた。生まれた子供にも会いたかったし、何よりもハリーに偽の手紙について知らせたい。私は『やがて手紙をくれなくなった外国人の一人』にはなりたくなかった。

二日後にインドに出発するという朝、職場に電話がかかってきた。いつもインド旅行の手配をお願いしている担当の稲田さんからだ。

「もしもし、南さん?」

「はい」

「Aツアーズの稲田です。ご予約されたホテルが無くなりました」

「はぁ? ホテルが、無くなった?」

「スマトラ島沖で地震が起きたのです」

2004年12月26日7時58分インドネシア、スマトラ島沖地震。マグネチュード9.1。

インド洋、ベンガル湾沿いの地域は津波で壊滅。

その後、連日テレビや新聞で報道される現地の惨事に目を覆った。

インドネシア、インド、タイ、スリランカを襲った津波で死者、行方不明者

22万人以上が報じられた。

ハリー一家はどうしただろう。無事でいるだろうか。

                                                  ❂   

そして、また2年が過ぎた。スマトラ島沖震災には世界中から義援金が集まり、復興の大きな力となった。しかし家屋の倒壊や路面の寸断、断水。衛生状態の悪化による感染症の蔓延。なかなか行けなかった。

   

             ❂

ハリー一家と別れて3年が過ぎ、ようやくインドに行く機会を得た。

南インドに行って二つの事を確認したかった。一つはもちろんハリー一家の安否と再会。もう一つは『クリシュナのバターボール』は今でも丘の斜面に留まっているか。

マドラスに着くとすぐハリーの家を探したが見つけることができなかった。スマトラ島沖地震で家並みが変わっていたり、建設復興のため他所の土地から働きに来た移住者も多く、椰子の木の家並み自体を知らない人たちもいた。

マハーバリプラムでクリシュナのバターボールが健在だったのはすぐに確認できた。そこで三泊した。

不幸にして家族を失った人たちもいれば、海外に出稼ぎに行っていて、災害を免れた人もいる。家を失って途方にくれた人もいれば、多くの義援金のお陰で、震災前は手漕ぎボートで漁に出ていたが、今はモーターボートで漁に出ている者もいる。地元で建設関係を中心に働き口ができ、家族と離れて出稼ぎに行かずに済むようにもなった。幸も不幸もあったがこの辺りに限って言えば、復興支援のお陰で生活が立ち直った。とホテルのスタッフが話していた。

              ❂

マドラスに帰る日、車がホテルに迎えに来た。送迎車でそのまま国際空港に向かう予定だったので日本から手配していた。運転手と英語が話せるガイドも一緒だった。

マドラスの街にはいり、空港に向かう前に夕食の時間が取ってあったが、その時間をキャンセルして、ハリー一家の家を探すようにガイドに頼んだ。

椰子の木の屋根で作られた家が並び、片側は高い塀で囲まれているというとガイドは良い顔をしなかった。太陽が西に傾いたころ。車は懐かしい家並みに入っていった。ここだ、間違いなく、この辺りだ。車が止まると子供たちが集まってきた。ガイドはドアを開け、裸足で集まって来る子供たちを手で払いながら外に出、一人の女に声をかけた。女は路地の先へと指さした。

車から降り、一件の家を訪ねたガイドが戻って来た。

「そこの家でたずねたのですが、妻の名はマヌーシャですか」

「は、はい、そうです」

「その一家は引っ越して、もうここにはいないそうです」

あっ、無事に生きていたんだ。私はホッとした。

「私、そこの家の人に合わせてください」

「いや、マダム外に出ない方がいいです」

「どうして?」

「この辺りは、何というか…。そのう…教育の無い人たちのエリアなのです」

「構いません。もっと、ハリーの一家について知りたいのです」

「いや…。それは…」

「私は、教育の無い人たちが好きなのです!」

と後部座席のドアを開けた。私が外に出るとガイドも仕方なく出てきた。

ここだとガイドが示した家に「ハロー」と言いながら戸口から顔をのぞかせた。家の中は流しと押し入れしかない2畳ほどのスペース。懐かしいハリーの住まいと同じだ。中には老人、女と子供たちそして男も、家族6人がいた。

「ハリーたちはどこにいるかご存じですか?」

英語が通じていない様子なのでガイドに通訳を頼んだ。

「どこに行ったのか、解らない。ハリーは出世した。リキシャーから車のドライバーになったんだよ」と老女の言葉をガイドは通訳した。

そうか。あのやり手のハリーらしいな。夢をかなえたのだ。私は嬉しくなった。

「子供は無事でしたか。名前はアシガという女の子です」

「ああ、アシガ、アシガ。元気だったよ」

「そう、良かった」

「しっかりした子供だったよ」

「あのマヌーシャの子供だもの」

と別の女が言うと、周りから笑いがあふれた。そして彼女が壁に張った一枚のチラシを指さした。

あっ! それは、かつてハリーの家にも貼ってあったチラシと同じものだ。

「このチラシの人は誰ですか?」

「マヌーシャの姉さんだよ。この辺りを統括している自治会長さ」

そうか、それであの威厳と貫禄だったのだ。妻の謎がやっと解けた。

「あんた、昔ここに来たろう? 家の前の家紋を見に来たろう」

「はい。私を覚えていらっしゃるのですか?」

「私も描いたんだよ。ハリーの家の前であれを、一緒にね」

「えっ、そうでしたか」

「ああ、あんたと飯も食べたよ。あんな立派なレストランに入ったのは初めてだったよ。ありがとうな」

「ああ、あの時の日本人だ」「ああ、思い出した」

家族から上がった声を通訳で聞いた。

そうそう、夕食の参加者が続々と増えて、いったい何人集まるのかと青くなったのを思い出した。あの時の人たちだったんだ。私は懐かしさで胸が熱くなった。皆さんご無事で良かったです。ありがとう、私を覚えていてくれて。

             ❂

車は国際空港に向かっていた。

「人探し、手伝ってくれてありがとうございました」ガイドに言った。

「でも、お友達には合えなかったのでしょう。残念でしたね。マダム」

「ええ、でも元気でいることが分かって、それだけで十分です。それに、彼は自分の夢を叶えたこともわかって嬉しいです」

「車のドライバーが夢だったようですね」

「はい。私が知り合った時はリキシャのドライバーでした。いつか車を買って一生懸命お金を稼いで、自分の家を持つ。そして妻にサリーをたくさん買ってやるんだと言ってました」

「素晴らしいサクセスストーリーですね」

「いろいろな困難があっても、努力とチャンスで夢を叶えている人を見ると勇気が出てきます。特にインドは経済成長が目覚ましいし、これからたくさんのサクセスストーリーが生まれると思います」

「ありがとうございます、マダム。僕も勇気が湧いてきます」

インドは変わっていく。貧困とどうにもならない制度下で生きている暮らしから、夢を語るようになった。そして今やその夢を実現する時代に入ったのだと思った。

車は国際空港に着いた。空港入口はひどい混みようで建物に入る列は迷路のように縄で仕切られている。建物内部は外から見られないように椰子の葉で覆ってある。ライフルを肩がけした警官が一人ひとりパスポートとフライトチケットをチェックしていた。

あれ、国際空港はこんなにみすぼらしい建物ではなかったはず。ここは国内線ではないの? とガイドに聞いた。

これは仮設の空港で新空港は今、工事中。5年計画でオープンするのです。と彼は説明した。

そして、その時はイギリス植民地時代に付けられた地名『マドラス』ではなく正式名称のインド名『チェンナイ』となり、新しい時代が始まるのだと誇らしげに付け加えた。 

                                 了

関西で学べるインド式健康法アーユルヴェーダ・ライフ|南想子の教室

ナマステ。インド式健康法アーユルヴェーダにようこそ。健康は正しい食事と生活習慣でつくられます。この教室ではアーユルヴェーダの健康理論を基にスパイス・瞑想・セルフエステを日常生活に取り入れた生活習慣を目標にしています。あなたの体質あったヘルシーライフスタイルを一緒に見つけましょう。

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